愛すべきキッチンドランカー

*このエントリは2015年8月25日に『ケンギョーシュフの呟き。』とし
 てUPしたエントリを cakesクリエイターコンテスト用に加筆・修正の
 上再録したものです。


 料理が、そこそこ好きだ。
 マトモに他人に食べさせられるものを作れるようになったのは、3.11のあった2011年以降だが、幼少の頃より小腹が空くと台所に立ち、卵を焼いたり油揚げやソーセージを炙ったりして食べていたので、素養はあったのだと思う。

 これは、多分に亡き親父殿の影響であるように思う。
 僕の親父殿は、有り体に言って、真人間とは対極の存在だった。

 まず、仕事がわからない。
 サラリーマンではないことは間違いないのだが、職種にせよ職場にせよ、何もわからなかった。
 故に学校で

「お父さんのお仕事について作文を書いてきなさい」

 という宿題が出た折は、実に弱った。
 表向き某新聞社の某販売店に勤務し、ご近所の商店等々から折り込み広告の依頼を巻き上......もとい、受注することが仕事であるという「設定」になっていたようで、

 広告代理業である

 と教えられ、そのように書いたところ、電博レベルの大企業勤務と勘違いされるという憂き目に遭った。
 憂き目である。
 なにしろ、当時の住まいは木造2Kの今にも崩れ落ちそうな風呂なしの古式ゆかしい木造アパートである。
 鍵は、当時の人気RPGに出てくるような「THE・鍵!」という形状で、授業中にポケットから出して机に置いておいたところ、当時の担任に

「学校にオモチャを持ってくるんじゃありません!!」

 と理不尽に怒られたものだ。
 後の初めての家庭訪問で、全てを察したようだが……
 時はバブル前夜。
 普通に働いていれば普通に暮らせた時代にそのような暮らし向きを強いられていた理由は、まさにこの親父殿にあった。
 幼少期の家の原風景は、四畳半二間にオレンジ色のガスヒーター(スルメを炙るのに重宝した)、ほぼカラになったサントリーレッドの瓶を横に、一口だけのコンロで夕飯を作る親父殿の姿である。
 当時の親父殿のつくるメシは、実にうまかった。
 まともな定収入が得られず業を煮やした母は、歯科医院でフルタイムの仕事に従事していた。
 当時の段階では、かつて方々のレストランで働き、東京五輪の選手村で腕をふるい、ドライブインを経営していた過去を持つ親父殿の料理スキルは、母のそれを2馬身以上引き離すぶっちぎりの差があった。
 また、戦中育ち特有の食への執着、一人息子への有り余る愛情も相まって、ボロ家の食卓にそぐわない食材ばかりが冷蔵庫に納められていた。
 肉は基本牛、和牛限定。鶏は地鶏、ブロイラー不可。豚は黒豚、当時は本州ではまだ珍しかったラム肉に、時には兎やキジ等のジビエと、謎の拘りと入手経路で得た食材により、ただでさえ高い我が家のエンゲル係数は青天井。連日ストップ高更新の日々だった。
 当然生活資金はあちこちでショートしまくり、ガスはとにかくよく止まった。
 ナイターが見られなくなるので、親父殿は電気代だけはそこそこ真面目に払っていた(と言っても大抵2~3カ月遅れ・いつも供給停止ギリギリ)が、水道が止まった時はどうしたものかと途方に暮れた。
 近所の公園まで水を汲みにいったりもしたが、断水数日目のある日、親父殿は閉じられた止水栓をちょい開けして使うという暴挙に出た。
 予め言うが、これは犯罪である。
 数日の後、当然スッ飛んできた水道局員にこっぴどく叱られた。「暑い中ご苦労様です」とお出しした冷たい麦茶は、更に火に油を注いだ。
 一事が万事このような具合で、タイトロープな日々を過ごしていたが、少年期の男子にとってそのような日々は、毎日がキャンプのようなイベント盛りだくさんの日々で、辛さや惨めさなど微塵も感じず、卑屈さはなかった。
それはやはり、親父殿の与えてくれた豊かな食の体験であったろうし、爪に火を灯すような生活の中、母が習わせくれた英会話やギターといった、文化的体験の故であったと思う。
 ヲッサンになった今、その素地が妻と母を喜ばせる原資となっている事が、素直に喜ばしい。
職業としての外食はすこぶる自分には合わなかった為、生業とするつもりはないが、掃除、洗濯等含めた家事を担う戦力として、 “兼業主夫” として生きていけている事を、有り難く思う。
 親父殿は二年前に他界したが、キッチンに立ちフライパンの中身をかき混ぜている時など、陽気な笑顔で料理を作る親父殿の顔を思い出す。
 何一つ残さなかった(それどころか借金を残していった)親父殿は、それでも僕に、かけがえのないものを残してくれたなぁと、僕は思うのだ。

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