尾崎豊世代ワイが ”MyGO!!!!!" の「迷跡波」を10代の自分に聴かせたいと思った話。
2023年11月4日、東京ガーデンシアターで開催されたMyGO!!!!!のライブ、「ちいさな一瞬」のアーカイブ視聴期限が、11月11日で終了した。
僕は現地には行けなかったものの、配信チケットを買い、11月11日の22時まで、通算8周ほどこのライブの映像を見返していた。
このライブに先駆け、MyGo!!!!!のファーストアルバム、「迷跡波」が、11/1にリリースされていたのだが、このアルバムを聴いていて本当に、心の底から、「10代の頃の自分に聴かせたい」と感じた。
前回のエントリに引き続き、MyGo!!!!!について語るのは2度目となる。
内容の重複もおそらく出てくるかと思うが、止められない衝動に突き動かされ、いまこれを書いている。
今回のエントリは、尾崎豊世代のオッサンだからこそ語ることができる目線で進めていこうと思う。
読み進めるにあたってひとつ理解して欲しいのは、今回の話に出てくる先達をDisる意図は全くないということだ。
「『僕には』合わなかった」とか、「ど真ん中からほんのすこしだけズレていた」
というだけの話なので、ぜひそこだけは誤解しないでいただきたい。
尾崎豊が僕に刺さらなかった理由
先にあんな注意書きをさせていただいたのは、このお話をするためだ。
我々の世代にとって彼はカリスマであり、不可侵の存在とさえ言える。
すくなくとも当時僕が身を置いていた環境で、「尾崎豊はそれほど好きではない」ということは、かなり勇気のいることだったし、正直、今でもちょっとだけ怖い。
現代の若者が「盗んだバイクで走り出す」という歌詞に、「持ち主が可哀想」という真っ当な感覚を持ち始めたことを知り、「ああ、やっと呪縛から解き放たれた」と感じた。
それはまさに、僕が尾崎豊の歌に抱いていた違和感だったからだ。
盗んだバイクで走り出すことも、夜の校舎窓ガラス壊して回ることもなかったししたくなかったししようとも思わなかったし、しゃがんでかたまり、背を向けながら、心の一つも分かり合えない大人たちを睨んだりしたかったわけじゃない。
そして尾崎豊の詞が僕に刺さらなかったもうひとつの理由は、歌の中の主人公が「なんのかんのいってもリア充」だったからだ。
尾崎豊の歌の主人公は、「おまえ」と呼べる恋人がいたり、「喧嘩にナンパ」の日々を過ごせるだけのコミュニケーション能力があったり、温めてあげたいマイリトルガールがいたりする。
「大人」とは相容れなくても、どこかしらのコミュニティには所属できていたり、心を通わせる相手が存在したりする。
それらを持っている時点で、彼らは僕にとって「等しい存在」ではなく、共感を抱くことができなかった。
「おなじ」ではなかった。
僕の目線では彼らは「持てる者」であり、「持たざる者」だった僕とは隔絶していた。
さらにいえば、尾崎豊を支持する層には、いわゆる「不良・ヤンキー」が多かった。
第一志望に落ち、滑り止めで入った底辺高にはその手合いが多く、彼らは(社会では別にして)学校というコミュニティの中においてはヒエラルキー上位の「強者」だった。
ひとの目を見ることすらできなかった僕にとって、尾崎豊は「強者の音楽」だった。
尾崎豊は、少なくとも僕にとっては救いにはなり得なかった。
僕の居場所はB5
僕が青春期を過ごした高校は、いわゆる「荒れた学校」だった。
男子は短ラン+ボンタンか、長ラン+ドカン(今でも存在するのだろうか?)。
女子は濃い目の化粧に強い香水とタバコが混じった匂い。
「パチった・ギった(万引き)」「カツアゲ」「喧嘩」「○○とヤった」等々の話題しか出てこない教室に辟易としていて、1年の3学期頃から学校をエスケープするようになり、2年になってからはそれが常習的になっていた。
3年は、2/3ほどしか出席していない。
それでも卒業できた(ことで少なくとも高卒にはなれた)ということだけが、あの学校に行ってよかったことだ。
とにかくあの場所にいたくなかった。
逃げ込んだのは本の世界だった。
通学の乗り換え駅の池袋(期せずして『BanG Dream! It’s MyGO!!!!!』の聖地だ)で降り、ぷらぷらと歩き回り、開店を待って池袋西武の屋上へ。
くしゃくしゃの紙箱から取り出したラッキーストライクをふかしながら、ジーンズの尻ポケットに捩じ込んでいた文庫本を読んだ。
なんでも読んだ。
小説、児童文学、思想書、自伝、とにかくなんでも。
そしてもう一つ。
中学の頃から書き始めていた小説や詩の世界。
読んでいる間、書いている間だけは自由になれた。
息をすることができた。
”僕の居場所はB5”
この言葉から始まる「音一会」を聴いたとき、そんな高校時代の自分が想起され、あの頃感じていた想いが、痛みとともに蘇った。
これだ。
あの頃の僕が本当にほしかったのは、こういう言葉だったんだ。
バブル時代の空気感では生まれ得なかったもの
僕が14歳(0ヶ月〜12ヶ月)だった頃は、80年代真っ只中だった。
いわゆるバブル時代。
とにかくイケイケな時代だったし、その空気にノれる人間がもて囃された。
モノ作りが重厚長大から軽薄短小に移り変わったように、人々の心やノリも「軽い」ことが望まれた。
あの頃流行っていたのは、「芸能人の身内ノリ」と「嘲笑」だった。
観測者の位置に逃げるつもりはない。
僕自身もあの只中にいた。
「とんねるずのオールナイトニッポン」を聞き、「夕やけニャンニャン」「オールナイトフジ」「ねるとん紅鯨団」を見ていた。
現代でいう「陰キャ/陽キャ」は当時「ネクラ/ネアカ」と呼ばれていたが、ニュアンスかなり違っている。
かつての「ネクラ」は、明確に嘲笑と攻撃の対象になっていた。
現代ならば即炎上になり得るさまざまな行為がエンタテイメントとして消費されていた。
そして、それをされた側は、「いいリアクション」を求められ、笑いに昇華することを求められ、被害者として声を上げることを禁じられた。
現在でもイジメとして残っているであろうこれらが、公然と、公共の電波に乗せて「笑い」として消費されていた。
この嘲笑と、被害者にリアクションを求める構図は、どの関係性にも見られた。
学校、会社はもとより、性的マイノリティなども「オカマ」「オナベ」キャラを求められた。
内省は「ネクラ」がするものであり、「ネアカ」であると見られなければならない時代には、内省的なもの、内省を促すものは、「暗い」、「ノリが悪い」とされ、排斥された。
「排斥」という強い言葉を使ったが、これはあながち大袈裟ともいえなかったと思う。
学校という閉じたコミュニティの中で、「暗い」「ノリが悪い」と思われることがどれほどリスクの高いことであるかは、世代を問わず、割と多くの方に共有できる感覚ではないだろうかと思う。
生存のため、僕らは「ネアカ」を装い続けていた。
しかし同様に、どんな時代であれ、人間の内面というものは大きく変わることはないはずだ。
あの時代であっても、MyGo!!!!!のような存在は絶対に必要とされたはずだ。
中島みゆきというおおきな受け皿はあったものの、それ以外の受け皿は本当に少なかった。
(そして中島みゆきは「ネクラ」が聞く音楽とされていた)
「ECHOES」が辛うじてその一角を担っていた以外は、僕が観測できた範囲内ではいなかった。
(2024.1.22加筆訂正、「THE BLUE HEARTS」という偉大なる先人の存在を忘れていた)
望む人はたくさんいたはずなのに、MyGo!!!!!はバブル時代に生まれることはなかった。
あの時代の空気感は、おそらくそれを許さなかった。
「戦いたくない者」を救う者の不在と30年越しの救済
バブルの残り香がまだ強く残っていた1990年代は「戦うこと、そして勝つこと」を目指すのが正解だとされていた。
どんな事象であれそれは存在した。
「勉強して、いい大学を出て、いい会社に入っていい給料をもらう」
そのために他人と「競う」「戦う」というシンプルな道が、まだ「正解」とされていた時代だった。
それは歌の世界、歌詞のなかにも存在していた。
戦う相手は「大人」。
上記の「正解」を押し付けてくる大人への反抗が、メッセージ性の強いロックミュージックの歌詞に「あるあるな」傾向だったように思う。
でも僕は何かと、誰かと戦いたいわけじゃなかった。
僕が反発し戦ったのは、後にも先にも、僕に戦いを強いた両親と、駆け落ち同然で結婚する前の義姉夫婦だけだった。
親に反発する程度の反抗心や反骨精神は持ち合わせていたから、「反骨的なロック」というのも好きではあったけれど、しかし、やはりそれらは「大人」や「社会」、「体制」など、外側の世界と戦っている人たちへのメッセージだった。
彼らを「カッコいい」とは思ったけれど、自分を重ねることはできなかった。
僕は戦いたいわけじゃなかった。
僕が欲しかったのは、自分の内側の葛藤や、自分を好きになれない自分、自分と世界との折り合いを上手くつけられない自分に
「君だけじゃない。おなじように悩んでいる僕がここにいる」
と、同じ痛みを共有してくれる誰かだった。
自分自身でさえ気づくことができなかったこの本当の気持ちをようやく自覚できたのは、そこから30年以上も後、つい数ヶ月前に「迷星叫」を初めて聴いた時だった。
「あたりまえ」というのは恐ろしいもので、それが辛いことだったのだと、苦しかったのだと、痛かったのだとすら気づくことができなかった。
叫んでよかったのだと、誰にも吐き出せなくても、せめて自分にだけは聞こえるように叫んで良かったのだと、「痛い」と感じても良かったのだと、まさか14歳430ヶ月の今、このタイミングで教えられるとは思わなかった。
ようやくこういうものが受け入れられる時代になった。
こういうものを好きだと、感動したと、これに救われたといっても笑われない時代になった。
「生きづらい」という言葉の発明による救済
生きづらさや弱さを許容してくれる社会は、昔よりは格段に生きやすくなっているのかもしれないと思う時がある。
誤解しないでほしいのは、個々のしんどみが緩和されたと言っているわけではないということ。
個々人の辛さやしんどさ、葛藤といったものは、古今東西を問わず、それぞれにありつづけるし、どちらがより辛いとか苦しいとか、比べるようなものではないし比べられるものではない。
それを大前提として、「生きづらい」ということを、弱さを見せてもいい時代になったのは、僕が少年〜青年期を過ごした時代より、社会の許容度という点では格段にマシになっていると思えるのだ。
MyGo!!!!!は、そういう時代背景があればこそ生まれ得たのだと僕は思う。
「『生きづらさ』を感じている人は、自分以外にもわりといるぞ」と感じられる人が、一定以上でてきたとき、「生きづらさ」を個々人が口にすることができるようになったとき、たくさんのひとの「生きづらい」という気持ちが世界に可視化されたこの時代だからこそ生まれたもののひとつが、MyGo!!!!!という存在ではないかと僕は認識している。
無論、「バンドリ!」というコンテンツのひとつとして、丁寧に練った戦略の上でキャスティングされ、パスパレ風に言えば「事務所の意向で」組まれたバンドではあるが、しかし、「今という時代」でなければ、ブシロードの中の人たちもMyGo!!!!!というバンドを企画・プロデュースしようとは思わなかっただろうし、そもそも企画段階で却下だったろう。
実際に活動が始まったあとも、「バンドリ!」コンテンツに組み込むべきでないという声も少なくなかったと聞く。
しかし、MyGO!!!!!は「バンドリ!」世界のバンドの1つとして認められ、キャパ8,000人の東京ガーデンシアターでのライブまで成功させるに至った。
もちろん「バンドリ!」のコンテンツ力によるところは大きいだろうが、「バンドリ!」世界の中で極めて異質な「BanG Dream! It’s MyGO!!!!!」という作品が少なくない新規参入者を産んだことから物語や楽曲、楽曲に込められたメッセージからフックした人はかなり多いのではないかと思う。
僕もその一人だ。
これはこういう時代、「痛みや弱さを曝け出すことが非難されない時代」だからこそ起こり得たことであると、やはり僕は思う。
MyGo!!!!!は時代の空気と、時代の要請から生まれたバンドなのだ。
10代の僕に聴かせたかった
それでも、やはり思ってしまうのだ。
あの頃、あの時、あの、自分の辛さや苦しさを自覚することすらできていなかった時代に、MyGo!!!!!の楽曲に、言の葉に触れることができていたなら、何かが違っていたのではないか、何かが変わっていたのではないかと。
状況を変えることはできなかったとしても、自分の心を解き放ってやることだけはできたのではないかと。
でもそれでも、生きている間にMyGo!!!!!に出会えて良かった。
37回目の14歳の誕生日が2ヶ月後に迫り、もうすぐ肉体年齢の十の位が5になる。
おどおどと、グラグラと、それでも生きている。歩いている。
いろんなことにいちいち傷ついて、ぜんぜん強くなれなかったけど、なんとか生きている。
半壊した心にできた罅から、その奥底にすむ「14歳の僕」にMyGo!!!!!の曲はしっかり届いている。
きっとずっと、一生一緒にいつづけるであろう14歳の僕へ、
「一緒に迷子になろう」