メタノールナイツストーリー BLUE 22話
第弐拾弐章 Boy on the run
走っている。
また走っている。
全力疾走、本日2度目。
肉体については、脳の視床下部周辺の一部、及び男子として最も重要な部位以外は、十代並の健全さを持ち合わせていない僕のハムストリングスと腓腹筋と前脛骨筋が、「ひぎぃ! らめぇ!」と悲鳴を上げる。
「マリンサイト・オーバルスクエア」という、丸いのか四角いのかわからないネーミングの広場を、海風を受けてひた走る。僕の脳内では伝説のオリンピックメダリスト、ジョン・ベッソンの如き完璧なストライドが描かれていたが、実際の僕は100mを約35秒のアベレージで、へろへろと駆けていた。幼稚園児の陸上大会でも予選敗退は確実であろう。
別にやましいことがあるわけじゃない。
たまたま。たまたまブッキングが重なりそうになってしまっただけで、それがたまたま、二人の別な女の子とのデート(?)だっただけの話だ。それにいまのところ、僕はどちらとも恋愛関係(藁束に屁を詰めるような気持ちになりそうな掴みどころのない言葉だが)になっているというワケでもない。
「なのに……なんで……こんな……」
後ろめたい気持ちになってしまうのか。
マリンタワー5階のマリンシアターに、今頃里美さんも向かっているはずだ。同じ映画を見に行くのなら、別に一緒に行ったってよかったハズ。それなのに、なぜ僕は同じ映画を見に行く事を里美さんに言えなかったのだろう?そもそも分かれて向かったところで、現地で鉢合わせる可能性だって、十二分に有り得る。
「いっっ……けぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」
時を駆ける勢いで階段を駆け上る。
斜め上約45°前方に、マリンシアター第5スクリーンの入口が見える。
待ち合わせ時間の14:00を、今は7分程超過していた。すまん、西野。
一段抜かしに駆け上っていた階段の最後の段を、ルールすらおぼろげなバスケット用シューズの靴底でガツッ! とグリップし、一気に踏み抜く。
勢い余って、一瞬、体が宙に浮く。1m程も飛び上がったような気がしたが、恐らく実際には地上5cm程度であっただろう。華麗な着地など望むべくもなく無様によろけた僕の矮躯が、何者かによって力強くキャッチされた。
「大丈夫?」
深いバリトンの声が、はるか天上から聴こえてきた。声の主を探して上を向くと、約40cm程上空に、白髪交じりの髪と髭を湛えた、丸メガネの柔和な顔があった。
約2mの小型巨人は、壁をブチ壊して人肉を貪り食うようなこともなさそうな、実に人好きのする空気を漂わせていた。
「ありがとうございます」
「うん、気をつけてね」
オジサン型小型巨人は、人の良い笑みを浮かべると、ふいっと人混みへ消えてしまった。
あれ? あの髭面、どこかで……
「高木くん」
……と、僕を呼び止める声が思考を遮る。最後にこの声を聞いたのは、約24時間前。クラスの連中が噂するような甘い関係ではないけれど、僕が一番身近に感じている女の子はこの子、西野美海(にしのみう)だ。
白のTシャツにネイビーのパーカー。ストレートジーンズに足下は白のオールスターというシンプル極まりないファッションは、どちらかと言うと甘いイメージの西野のビジュアルを、むしろ引き立てていた。肘裏の肌の白さや指先の形、桜貝のように磨かれた爪や、ロールアップしたジーンズから覗く足首の細さ。今までは目に入らなかった、意識さえしていなかった西野美海の一面を、僕は見ていた。色素の薄い西野のブラウンの瞳が僕を見つめ、笑いかける。僕も、笑顔を返す。
「待たせちゃったね。悪い」
「ううん、大丈夫。今開場したばかりみたいだし。じゃ、早速だけど入っちゃおうか」
「だね。でも意外。西野、オクトパス持ってたんだな」
「えへへー。お誕生日とクリスマスとお年玉の全てを前借りして買ってもらったんだー。私がオクトパス持ってるの、そんなに意外……かな?」
「うん、西野って、元気いっぱいアウトドア、ってイメージだった」
「あはは! それこそ意外! 私、究極のインドア少女よ。スポーツはね、実は理沙がスゴイの」
「久米川が!? ちっこくて眼鏡っ娘で、まるっきり文学少女だと思ってた」
「理沙、バスケ部のポイントガードだよ」
「まぢ! あんなちっこいのに!!」
「ポイントガードはね、司令塔であり、味方のアシストをし、ゲームメークもする究極のオールラウンダーなのよ。あの子、ホントにスゴイんだから」
「へー、みてみたいな。久米川の試合」
「じゃ、今度一緒に見に行こっか」
「うん」
他愛もない話をしているうちに、僕たちは指定の席までたどり着いた。
着座すると、バッグから取り出したオクトパスを装着し、リンクケーブルを背もたれの横の端子に繋ぐ。
肘掛けに置いた左腕を、西野の腕が捉える。
照れる間もなく西野は肩にもたれ掛かってくる。西野の胸と、僕の胸の鼓動を感じながら、オレンジのような、甘いけれど爽やかな香りが西野らしいな、なんて冷静に思った。端子に接続されたオクトパスは、マリンシアターのホストサーバーに連結され、精緻なVR映像が流れている。この広大な原野の映像には見覚えがある。メタストのゲーム世界、「ガイヤード」内の映像だ。『VRMMORPG、メタノールナイツ・ストーリー』の壮大かつ長大なCMがフェードアウトし、いよいよ本編が始まる。
オクトパスが映し出すのは一面の深い闇。
1分
2分
3分
いつまで経っても何も始まらない。
館内がざわめき始める。
西野の腕が、より強く僕の腕を掴む。刹那、バン! という音と共に、足下の感覚が消滅した。
自由落下の感覚の中、僕は西野の躯をギュッと抱きしめた。
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