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困窮してみた No.3.〜決裂〜

【前史】

ここからの話を行うために、まずは母方のきょうだいと祖父、そして僕自身の『これまで』の話をしなければならない。

実際に書いてみたら、結構な量になってしまって、お話の本筋が置き去りになってはしまうし、一歩間違うと自分の両親や親族をdisることになる危険もあるのだけれど、貧困や困窮というのは、昨日今日のしくじりで起きるものではなく、前世代から持ち越された負債によって引き起こされることが、とても多いのではないかと思う。少なくとも僕のケースでは、このことが要因の一つではあったし、自分自身の整理のためにも、一度まとめておく必要を感じた。

しばらく脇道にそれてしまうが、ご容赦いただきたい。

この手の話は、「もっと大変な人もいる」、「逆境を跳ね返してこそ」、「この程度を不幸というのは……」と、他所様と比べ始めるとキリがないものでもある。
僕自身が、恨み言を言いたいワケでも、だれかのせいにしたいワケでもないので、どこまで書いたら良いのかと、本当に迷う。あくまで、僕や僕の周りでこういうことが起こって、僕はそう感じて、考えて、動いた、ということで。

母は、3きょうだいの長女(長子)だ。
長男である叔父は、実家近隣に居住しているものの、祖父の家にはほとんど寄り付かず、しかし、家父長制のメリットは最大限に享受し、子供の養育費も、自分の家を建てる費用も、バカでかいファミリーカーの購入費用も『長男だから』出してもらっていた。

長女である母は、県内随一の名門女子高を卒業しつつも、『女が大学いってどうする』という昭和理論により、進学の道は最初から用意されておらず、次子である叔母も同様だった。

母と叔母の差がついたのは、母の結婚以降のことだ。

高校卒業後、山っ気のある父とうっかり遭遇してしまった母は、これまで出会ったことのない、堅実とは対局のタイプの男に、脳内物質のコントロールを狂わせて駆け落ち同然で結婚出産。
定職を持たない父と母は、住所も持てず、乳飲み子を抱えたままその日暮らしで宿や知人の家を転々とする。

元来人に使われることのできない性分の父の経済状態は、亡くなるその日まで安定することはなかったが、当時は論外のレベルだったと思われる。
喰い詰めた夫婦は、遂に息子を父母(僕からみて祖父母)に預けることになる。
その後、小学校3年生の一学期まで、僕は祖父母によって養育された。

どうにか住所を持つことができた夫婦は、息子が8歳の年に、やっと迎え入れることができた。
夫婦にとっては感動の再会であっただろうけれど、僕自身の中には、良く知りもしない大人の、理不尽な身勝手に振り回された感覚しか残っていない。
結果的には、東京に来れたことはプラスではあったけれど。
僕は実質的に、その時初めて父と出会った。

僕と一緒に暮らし始めてからも、父のその日暮らしは続いた。定収入の入ってこない生活に業を煮やした母は、父の意向を押し切り、自分でも働くことにした。
(母もまた、厚生年金も雇用保険もない職場ばかりを転々とすることになる)

母が働き始めると、父は更に働かなくなった。
ほぼ専業主夫状態の生活は、父子の関係を築く時間としては、悪くなかったと思う。
ただ、経済的にはどんどん悪い方へ悪い方へと向かっていたのだと、今はわかる。
定職に就かなかった父も、年金が天引きされない職場に努め続けた母も、どちらも年金を納めていなかった。

大学入学の2ヶ月後、父が腎不全で倒れた。
入院と共に発覚したのが、当時の一家の年収の2倍程の借金。母一人では絶対に返済不可能。
息子の学費が出せないというレベルではなく、なんとか二人で働いて返さなければならない。
僕は大学をやめた。

叔母はそんな母の姿を反面教師に、手厚い社会保障とキャリア・人脈を得ることが可能な道を進み、かなりの晩婚ではあったが、富裕層のアメリカ人と結婚した。
貞淑で(自分よりも)若いジャパニーズワイフを求める、共和党支持のゴリゴリのWASPである叔父との結婚生活が、果たして幸福なものであるのかどうかは、僕にはわからない。

【老老介護】

これを踏まえた上で、祖父の話。

三姉弟の長女である母は、この十数年ほど、祖父の介護を一手に引き受けねばならない状況にあった。
10,000km以上離れた叔母は、当然世話ができず、最も恩恵を受けている叔父と祖父は、非常によそよそしい関係で、祖父の要求は、いつでも長男や近くに住む親戚を飛び越して、200km以上離れた東京に住む長女(母)か、幼少期に養育していた孫(僕)に飛んできていた。

僕が身の丈に合わない車の所有をしていたのは、父が亡くなるまでは、一級障害者(透析)であった父の対応の為。父の亡きあとは、祖父の介護対応が主な理由だった。もちろん、クリティカルな事件はそうそう起きなかったので、レジャー利用も多かったのだけれど。

車の所有がいよいよ難しくなり、度々レンタカーを利用するのも経済的にしんどくなってきたタイミングで、これまであまりにも元気すぎた祖父の状態が、一般的な高齢者のそれに近くなってきた。

旧陸軍の車両整備士兼運転手をやっていた祖父は、僕などよりよほど頭も切れ、昔の日本の百姓特有の異常な程のフィジカルの強さ、独学でちょっとした家の補修から建築物(小屋)の建築までをこなすDEX値の高さを誇るスーパーマンだった。
そんな祖父が、良く転んでは大怪我をするようになり、歩かなくなったことで頭のキレも悪くなり始め、とくに短期記憶がかなり怪しくなってきている。

祖父は現在98歳。
それでも、他所様の98歳と比べれば、かなり元気な部類だと思う。
少し歩行がおぼつかなくなったとはいえ、まだ日常的な用事の歩行に問題はないし、短期記憶の問題も、日常生活に重大な問題が出る程ではない。

とはいえ、この「少し」が、都内の自宅から、200km以上離れた場所へ出張で介護を行っている母にとってはクリティカルな変化となっていた。

身の回りの世話だけでなく、母にとっては嫌で嫌でたまらない、田舎ならではのご近所付き合い親戚付き合い。食事一つにしても、祖父が食べたがる(食べてくれそうな)ものを優先するので、自分の食べたい・作りたいものとは違う。作ったところで食べないことも多い。求めるべきものではないのかもしれないが、感謝もされない。

僕が一緒に行けた頃にはシェアすることができたそれらの労苦を、自分ひとりで抱えることになり、静かに、少しづつ疲弊していたのだと思う。

【追い打ち。そして……】

そんな中、降って湧いた息子のジャンピングチャンス。期待もひとしおだったであろう。
けれど息子は見事に下手をこき、再び精神を病んでしまった。
精神的な余裕を失くし、完全に鬱ぎ込んでしまった僕は、責められているような気がして、母との距離を置いてしまった。

以前書いたように、ちょうどその頃、叔母の逗留の時期と重なり、さらにお互い距離が開いてしまう状況だった。裏腹に、およめさまへの依存は、より強くなっていった。
『この人に手放されたら死ぬしかない』というレベルで依存していた。
一睡もできない体、母への罪悪感、生活の不安と自責の念で死にかけた精神を、唯一解いてくれたのは、およめさまとの他愛もない会話やふれあいだった。

そんな人がいてくれた僕は、とても幸せだったのだと思う。
そんな人がいなかった母は、とても辛かったのだと、今は思える。

母と僕の関係は、言葉を交わせば交わす程悪化していった。
とはいえ、直接言葉を交わすのではなく、携帯のメッセージでのやりとりだ。

いっぱいいっぱいの人間が、いっぱいいっぱいの人間からの要望や問いに、いっぱいいっぱいのままで返す。
こじれないわけがない。

そして、母は触れてしまったのだ。
僕の唯一の逆鱗に。

『障害者なんかと結婚するからこんなことになるんだ』

と。

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