頭が悪いやつほど科学者向き:「科学者とあたま」寺田寅彦著(青空文庫)
本の紹介だけで記事にするのはちょっとズルいので今回は少し解説をしてから寺田先生の随筆を紹介する。テーマは「本当に理解しているか、理解しようとしているか、ただ計算できればそれでいいやになっていないか」である。
二次方程式の解をα、βと書くと以下の方程式が成立する(式1)。
これをいきなり書かれたら、なに難しいこといってるんだ、読むのしゅーりょー、となるかもしれない。ちょっと待って。あなたは少なくとも0(ゼロ)になにかを掛けても0になることは知っているはず。0かける3も0、0かける10も0。5かける0も0。つまり、0かけるなにか、か、なにかかける0は必ず0になることは知っているはず。それを応用できなければ理解しているとはいえない。理解しないと宇宙の美しさを知ることはできず、せっかく生まれてきたのにもったいない。理解できずとも、「理解しようとする」気持ちが大事。上の式はある数をなんでもいいのだが、一般の数として、xとしている。で、解を2つ用意した、ということ。例えば、解を3, 5としてみる。解ということは、xに3や5を代入すると0になることになる。
x-3に3を代入すれば、当然0となり、x-5に3を代入すれば-2となり、0 x (-2) =0 となる。5を代入するのも一緒で、2 x 0 = 0 となる。(2)を展開したほうの式(3)に3を代入すると、3^2 - 3 x 8 -15 = 9 - 24 +15 = 0となり、やはり0になる。5を代入しても25 - 40 +15 = 0となる。
式(1)をいきなり書いたが、つまり、なにかかけるなにか、が0になる、ということは、0になにかがかかっているのか、なにかに0がかかっているのか、ということになる。これを同時に成立するように式で書くと、A x B = 0ということになる。Aが0か、Bが0、ということに対して、なにか知りたい数(解)、つまり、どういうとき0になるかの数をα、βと書くことにすると、ある変数xからこの解を引いたものが0になっていればよい、つまり、x-α=0かx-β=0ということになる。
このように0になにをかけても0、ということを知ってさえいれば、上の説明はそれほど難しいことではなくなる。頭がいいとか悪いとかの以前に理解しようとしているかどうかが重要だ。理解した、ならば、その意味するところの本質的なところを掴むことができ、いろいろ応用できることになる。上の例ならば、じゃあ、3次方程式の解はどうかけるか?ということになれば、当然、
のように書けるはず、と直感的におもい浮かべることができるであろう。
頭のいいひと、悪い人については寺田先生のよい随筆があるのでそれを引用して終えることにする。青空文庫で15分程度で読める長さ。
「科学者とあたま」寺田寅彦著(青空文庫)
「科学者になるには『あたま』がよくなくてはいけない」これは普通世人の口にする一つの命題である。これはある意味ではほんとうだと思われる。しかし、一方でまた「科学者はあたまが悪くなくてはいけない」という命題も、ある意味ではやはりほんとうである。そうしてこの後のほうの命題は、それを指摘し解説する人が比較的に少数である。
...
頭の悪い人は、頭のいい人が考えて、はじめからだめにきまっているような試みを、一生懸命につづけている。やっと、それがだめとわかるころには、しかしたいてい何かしらだめでない他のものの糸口を取り上げている。そうしてそれは、そのはじめからだめな試みをあえてしなかった人には決して手に触れる機会のないような糸口である場合も少なくない。自然は書卓の前で手をつかねて空中に絵を描いている人からは逃げ出して、自然のまん中へ赤裸で飛び込んで来る人にのみその神秘の扉とびらを開いて見せるからである。
...
頭のいい人は批評家に適するが行為の人にはなりにくい。すべての行為には危険が伴なうからである。けがを恐れる人は大工にはなれない。失敗をこわがる人は科学者にはなれない。科学もやはり頭の悪い命知らずの死骸しがいの山の上に築かれた殿堂であり、血の川のほとりに咲いた花園である。一身の利害に対して頭がよい人は戦士にはなりにくい。
頭のいい人には他人の仕事のあらが目につきやすい。その結果として自然に他人のする事が愚かに見え従って自分がだれよりも賢いというような錯覚に陥りやすい。そうなると自然の結果として自分の向上心にゆるみが出て、やがてその人の進歩が止まってしまう。頭の悪い人には他人の仕事がたいていみんな立派に見えると同時にまたえらい人の仕事でも自分にもできそうな気がするのでおのずから自分の向上心を刺激されるということもあるのである。
...
最後にもう一つ、頭のいい、ことに年少気鋭の科学者が科学者としては立派な科学者でも、時として陥る一つの錯覚がある。それは、科学が人間の知恵のすべてであるもののように考えることである。科学は孔子こうしのいわゆる「格物」の学であって「致知」の一部に過ぎない。しかるに現在の科学の国土はまだウパニシャドや老子ろうしやソクラテスの世界との通路を一筋でももっていない。芭蕉ばしょうや広重ひろしげの世界にも手を出す手がかりをもっていない。そういう別の世界の存在はしかし人間の事実である。理屈ではない。そういう事実を無視して、科学ばかりが学のように思い誤り思いあがるのは、その人が科学者であるには妨げないとしても、認識の人であるためには少なからざる障害となるであろう。これもわかりきったことのようであってしばしば忘られがちなことであり、そうして忘れてならないことの一つであろうと思われる。
この老科学者の世迷い言を読んで不快に感ずる人はきっとうらやむべきすぐれた頭のいい学者であろう。またこれを読んで会心の笑えみをもらす人は、またきっとうらやむべく頭の悪い立派な科学者であろう。これを読んで何事をも考えない人はおそらく科学の世界に縁のない科学教育者か科学商人の類であろうと思われる。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?