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「区別がつかない」とは「同じである」ということか

エレベーターが落下しているとき人が無重力を感じることと、本当に無重力空間にいることは同じである(等価原理)という発想から、アインシュタインが相対論を導き出した話は有名である。

しかし、普段生活をしていると「区別がつかない」ということと「同じである」ということが違うのではないか、という念がわき起こることがある。それらを列挙してみる。みなさんはどう感じるか?

1日はみんな平等に24時間である。時間の進みかたもアメリカにいようが日本にいようが1秒は1秒だ。本当か?先日、東京スカイツリーの上と下とでは時間の進み方が違う、というニュースが流れた(上のほうがほんの少しだが進みが速い)。いくつかのサイトで紹介されている。たとえば、https://wakara.co.jp/mathlog/20200407 。区別がつかないぐらいの違いだが、同じではないことがわかる。同じように新幹線で移動している人の時間の進み方も乗っていない人は違う。こんなのどうでもいい、と思うなかれ。みなさんがいつもお世話になっているGPSはこの相対論的補正がなければ使い物にならないぐらい誤差が生じる。詳しく知りたい方はサイトを検索すればたくさん出てくるのでそちらを参考に(人工衛星は非常に速く動いているので時間の進みは遅くなっているが、重力が弱いので時間の進みは速くなっている、これらの相異なる補正を考慮して時計を合わせている)。

今度は化学的な話。富士山の湧き水を精製して作った純水。もう一方は、人間の尿を精製して作った純水。純水なのでどちらも混じりっけのない

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が成分になっている。化学的には全く区別はつかない。これを店頭に並べて売ったとして同じように売れるだろうか?

今度は生物学的な話。一卵性双生児はDNAレベルでは全く区別がつかない。かといって、同じような人生を歩むわけでもなく、見る人がみれば、区別はつく。

IT関連でも同一人物かどうかが問題になるときがある。IDとパスワードを盗まれてしまった場合、「なりすまし」人物が投稿したのか「本物」が投稿したのか区別がつくだろうか。また、個別のIDが個別の実在する人物に対応しているかもあやしい。一人の人間がいくつもアカウント作成してあたかも別々の人物がいるようにみせれるし、そもそも人間ですらなく、チャットボットが勝手に投稿しているかもしれない。

普段の生活だと、たとえば、食事中でもはっとするときがある。料理を食べていて突然、皿のはじのほうに虫がとまったとする。料理には影響がないのだが、何か今までおいしく食べていた感じがかわってしまった気がする。料理としては前後で全く同じなのにもかかわらず、にだ。

アートでもあるだろう。特に、デジタルアートの場合、コピーとオリジナルの区別が全くつかないだろう。ただ、その作品に付随する情報からこれはオリジナルであり、これはコピーである、と区別することは可能だろう。

星新一のショートショートでもあったが、声帯模写が上手なひとがいた場合、本人かどうか声だけで区別がつくだろうか?なかなか、区別がつかないだろう。

ディープラーニングのおかげで、映像関係の技術進歩もめざましい。俳優がちょっと演技をミスってもあとから編集して顔の表情も変更できてしまう(かもしれない)。そうやって編集しまくった映像をもとに「演技がうまい、いい表情だ」と評価され、なにか賞をとってしまったとしたら?本当に俳優が演技をしているのか、編集の技なのか、区別がつかないだろう。

AIの話題は尽きないが、例えば、先日、カンヌ広告賞をYAMAHAチームが受賞したニュースが流れた(https://www.yamaha.com/ja/news_release/2021/21070601/)。これは、有名なピアニストの演奏を再現するというもの(ドキュメンタリーフィルムは https://www.youtube.com/watch?v=vyUgY3R9-GQ)。ドキュメンタリー内では、演奏を聴いた友人が感想を求められ、言葉を失っていた、あまりにも似ていたのだろう。

身の回りの「区別がつかない」「同じなのか」を考えることはなかなか面白いと自分は感じる。アインシュタインが発見したように、新たな発見があるかもしれない。

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