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太宰治『斜陽』によせて

太宰治著「斜陽」を7、8年ぶりに再読した。

以前読んだときはまだハタチそこそこ、太宰作品を好きになり始めた頃で、「太宰といえば人間失格の次は斜陽だよな」という感じで読んだ記憶がある。

その時も太宰治のその繊細なことば遣いと色彩のうつくしさに、しくじった。惚れちゃった。と思ったものですが、今回再読してみて、なんだかもう、ちょっと言葉にできないくらいの感動を覚えたので、この気持ちを忘れないようここに綴っておこうと思います。

まずこの「斜陽」が発表されたのは昭和22年。

戦争が終わり、それまでの価値観や階級が意味をなさなくなった混乱の時代。

その時代の皺にはさまれ、ゆっくりとねじ切られるように没落していく貴族の様が、これぞ太宰節というような、うつくしい文筆で描かれています。

一般的には「戦後の貴族たちの散りゆく様を美しく描いた名作」として評価されているようです。し、私もそう思う。本当に太宰の描く心理描写の繊細さにはため息が出る。

しかし今回再読してみて、一番強く胸に残った気持ちは「やっぱり女は強い」だった。(女性じゃなく”女”が相応しい気がする)

女の人の先天性の逞しさというか、「恋と革命」に目覚めた女の凄みをまざまざと突きつけられた。

きっと人間は誰しも誠実に、少しずつだとしても成長を実感しながら、人生という展望を彩りのあるものにしていきたいと努力するものですが、
その反面、心の裏側では「恋のためにこの身を滅ぼしてしまいたい」という革命的な欲求も常に抱えている。

誰もがこの相反する葛藤を抱えているからこそ、恋と革命の海へと泳ぎ方も知らないまま飛び込んでいく"かず子"の「女として生まれ持った逞しさ」に胸を打たれるのではないか、と思う。

恋は能動的に始めるものではなく受動的、というか天災的なものであり、どんなに些細なきっかけだったとしても、一度火を附けられてしまったら最後、火を附けた本人に消してもらわない限り、なかなか自分では消せないものです。

そして不思議なことに、火を附けた本人が様子を見に来ることや薪をくべることを一切しないとなると、なぜかより一層その燈火はのろしを上げて燃えさかる。

作中、主人公のかず子は燃えさかる蝋燭を胸に、
その火を附けた本人へ6年ぶりに会いに行く。
しかし、会った瞬間その蝋燭の火はふっと消えてしまう。

かず子もやはり、燃える蝋燭を勝手に育てていたのは自分自身だった。

この時、かず子の切なさがひりひりと伝わってきてなんとも胸が痛い。
わかる、わかるぞかず子、切ないよなあ。と肩を抱いてあげたい。

しかしかず子という女はやっぱり逞しかった。

この後に放たれる、かず子の持つ「底知れぬ母性」にやられない男はいないだろう。
「母性」はやさしさや愛情に加え、狂気も内包しているらしい。



太宰はよく厭世的でネガティブなイメージの作家と語られることが多いですが、本当は全部が全部そんなこともなく、必ず作品の隅々にユーモアと自虐を散りばめるような、茶目っ気溢れる文学家です。

"「よくわからないけど、どうせ直治の師匠さんですもの、札つきの不良らしいわ」
「札つき?」
 と、お母さまは、楽しそうな眼つきをなさって呟き、
「面白い言葉ね。札つきなら、かえって安全でいいじゃないの。鈴を首にさげている子猫みたいで可愛らしいくらい。札のついていない不良が、こわいんです」
「そうかしら」
 うれしくて、うれしくて、すうっとからだが煙になって空に吸われて行くような気持でした。おわかりになります? なぜ、私が、うれしかったか。おわかりにならなかったら、……殴るわよ。"

『斜陽 /太宰治』より

かず子、かわいい。

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はい。
久しぶりに読みましたが斜陽、あらためて素晴らしい一冊でした。
歳を重ねると、同じ本でも感じ方がまるで変わるんですね。

太宰治著の作品は全て読んだけど、あらためて全作品読み直そうと思う。再読とはいえど、斜陽は今年暫定一位の一冊になった。

これから読む人のためにできるだけネタバレを含まないように書いたつもりですが、やっぱり皆さんは別に読まなくていいです。

というか、できれば読まないでほしくなってきた。
なんかこれは自分だけのものにしたい気持ちになってきたな。

でもせっかく書いたんで残しますね。

またなにか記事を書いたときは遊びに来てください。どうかそれまで、お元気で。

もし、これが永遠の別れなら、永遠に、お元気で。

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