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クリスチャン・ボルタンスキー

国立新美術館で開催中のボルタンスキー展。

やっと行ってきた。

私が一番好きだった作品は『黄金の海』。

海をイメージした黄金のブランケットの上で揺れ動く電球。

照らされたブランケットはその度ごとに表情を変え、まるで海をのさざなみを思わせる。

これ以上ないくらい単純な仕掛け・要素で構成されているこの作品を、それでも眺めているだけで、目頭が熱くなってそこから離れることができなくなった。

ここが美術館であるという現実。他の鑑賞者の目線。目の前に用意された海に、そういうものから解き放たれて放り出される。

光の玉の往来と共に明暗を行き来する黄金の海。知らず知らずのうちに私達はそこに自らを依拠して、そして自らと向き合う。

黄泉の国というものがもしもあるのならば、これがそうなのかもしれない。幸とも不幸ともつかない時間。

もう一つ好きだった作品、『黄昏』。

床に並べてある電球は会期中毎日3つずつ消えていく。

失われた時間が可視化され、残された時間が浮き彫りになる。残っている時間が光っているからこそ、私達は過ぎ去った時間を視線で捉えることが可能になる。

一点から広がる電球はとても人工的で無機質なのに、それらはとても儚く美しく。

この2つの作品の共通点は、あまりにコンセプチュアルで、その意味が作品それ自体を危うく凌駕しそうになるほどであるのにも関わらず、敢えて誤解を恐れず言うならば『美しい』ことだ。

アニミタスにも同様の美しさを感じた。

絶対的美という観念も価値観もないという議論は承知の上で、私は私個人として、なんて美しいのだろうかと、作品の持つ意図、informationを知って尚、そう思った。

モニュメントと呼ばれる作品群に関しては、一見荘厳な佇まいの中でどこか私達を嘲笑うような無造作な電球のコードの持つ意味を、考えざるを得なかった。

これらは追悼なのか、象徴なのか、哀しみなのか。

死とは、とても脆く危うく、そしていとも容易く記号的なものに回収されてしまう、そういう表情に見えた。

ボルタンスキーは、自分は鑑賞者に問題提起をしていると発言している。

まさに私達はボルタンスキーによって、これらと各々の内的な欠片とを、知らず知らずのうちに結びつけさせられている。

それこそがこの展示の、作品群の最も優れている点であると、1日を振り返りながら思う。





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