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エッセイのようなもの

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思うことをつらつら書き綴っています。
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#思い出

思い返せばアオハル

誰にでも子ども時代があり、そして青春がある。 昨日は選抜甲子園の出場校発表がありましたね。 喜びを分かち合う坊主頭の選手たちを見ていたら、思い出した人がいます。 今日書こうと思うのは、ずい分昔の思い出話です🤗 亨と書いて「あきら」と読む名の男の子。 中学校を卒業してもう40年も経つけれど、あなたは今も、元気いっぱいに過ごしていますか? 不意に当時のことを思い出し懐かしくなりました。どこにでもある青春の1ページですが、記憶に残っているうちに書き残しておこうと思います🤗

ありがたいけど、困ること😅

「あれ?先生だったのかい。」 なんとも言えない、複雑な気持ちになった出来事の第一声。それはもう20年も前に遡ります。 分けあって救急車を呼んだ時のことです。 なんと、駆けつけてくださった救急救命士さんが、当時受け持っていた子の、お父さんだったのです😱 救急車を呼ぶくらいなので、体を自分で動かすこともできないほど、へたあ〜となっているわたしを見て発したのが、冒頭の言葉でした。 ご本人はお仕事なので慣れているし、テキパキと病院に運んでくれたので、気まずいと思っていたのはわ

母の服

昨夏亡くなった母は、わたしに有形無形のものをたくさん残してくれました。 無形のものは語り尽くせるものではないので、今日は有形のもの、母の遺してくれた衣服についてのお話です。 タンスのなかに昨夏、母が亡くなった日。 わたしはお見舞いのつもりで実家のある旭川へ向かっていました。ですから数泊分の準備しかしていなかったですし、礼服なんてとんでもない、ともちろん持っていくはずもなく、列車の旅が長いということもあり気軽な夏服での訪問でした。 母は、わたしを待っていたかの様に、到着した

馬の瞳

ばんえい競馬を楽しんでいた時に、思い出したことがあります。 わたしは馬が好きで、仲良くなりたいと前から思っていたのですが、どうしてそう思うようになったのか、それを思い出したのです。 それはまだ、10歳にもならない頃のことです。 石炭ストーブ幼い頃、正確に言えば昭和47年から52年までの間、わたしは道北の美深町に住んでいました。とても好きな町でしたが、冬は雪深くとても寒いところでした。 はじめの2年間。我が家のストーブは、いわゆるダルマというまあるい石炭ストーブでした。

はぐれ狼

はぐれ狼 乾いた荒野で 美しい悪魔を待つ 冬になっても 君を信じたい まどろみの果てに見た朝焼け はぐれ狼 擬態は終わり 錆び付いた槍を磨いて 勝算は薄いけど 君を信じたい 鈍色の影を飛び越えていく スピッツ「はぐれ狼」の歌詞です。 出会い、そして別れてもなお、忘れられない人は幾人もいますが、ここ最近になってまた思い出し、もう一度会いたいなと思う人がいます。 その彼が、お別れの直前に「この歌が好き」と教えてくれた歌です。 彼とは書きましたが、30歳くらい年下の男の子な

出会いがあるから

これは、忘れていた過去の出来事を思い出したところからお話は始まります。そして人は、出会いによって変わることが出来る、というところに辿り着いて行くのです。今日は、そんなお話♪ 忘れていた物季節が変わり、そうだ!洋服の整理でもしよう。と始めた年末の断捨離。ずい分着ていないものは思い切って捨てよう。もう読まなくなった児童書や時代遅れの教育書も整理して、子ども達のおもちゃも少しずつ捨てよう。トイストーリーのシーンが思い出されて忍びないけれど…。って順調に断捨離を進めていると、 ん

父が残してくれたもの

わたしは父によく似ていると言われる。正確に言えば、父の妹(叔母)にそっくりなのだそうだ。 父は幼い頃に結核で両親を亡くしており、わたしは祖父母を知らない。そんなこともあって、父方の親戚とはあまり交流がなく、叔母との思い出もあまりない。 父は昭和12年生まれにしては、珍しいほど背の高い人で、身長は180cmほどあった。目が日光に弱く、薄く色の付いた眼鏡をかけていたから、見た目は強面で、とても迫力のある人だった。 父は音楽家になりたかった中学音楽教師だった。子どもの頃は、学

想い織る 思い出編

この空の向こうに在る 輝く彼らに想いを馳せると 想いの糸が 一筋 金色に光り生まれます それは今この瞬間に 幾多の胸の内に生まれ 彼の地に向かって 一筋また一筋と翔けるのです 時を追うごと 光は煌めき勢いを増し 流星群のようにして 彼らの元へ降り注ぎます 王蟲の掲げる触手の如く 金色に輝く球となって 想いの光は彼らを包む 糸は織られて強さを増して 想う心を繋ぐでしょう 今宵 輝くその球体は 大きく彼の地を包み込み 呼応する想いで満ちていく 光と熱は彼らに宿り 道を照