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スイート・ウィークエンド

【腹黒社長の淫靡な溺愛は愛人契約から始まりました】配信記念SS



なんだか、すごくいい匂いがする。そう思った一花はぱちりと目を開けた。
(知らない天井……?)
 思わずそう心の中でつぶやいてしまってから、ハッと気が付く。自分はあのアパートから引っ越して、ここに来たと言う事を。
 榛名一花から、大島一花になったのだという事を。
「ふぅ……」
 ため息をついて、ベッドから起き上がる。大島はすでに起きたようだ。壁のスイッチを押すと、天井から釣り下がるアイボリーのカーテンが自動で開く。眩しい東京の青空が、見渡す限りに広がっている。ふとベッドサイドの時計を見ると、8時を指していた。
「うわっすごい寝坊じゃん」
 一花は慌ててリビングへと顔を出した。キッチンで、すでに着替えた大島が立ち働いていた。
「すみません、賢治さん……」
 すると彼は手元から顔を上げて微笑んだ。
「おはよう一花。何を謝っているんだい」
「その、起きるのが遅くなって……」
 こんな年になって。若干気恥ずかしい思いでうつむいてしまう一花だったが、大島はサラリと言った。
「昨日は無理させてしまったからね。……いいのさ、もっと寝ていたって。でもちょうどよかった。お座りなさい」
「はい」
 素直にアイランドキッチンの前のスツールに腰かけると、大島は切ったオレンジをものものしい機械に放り込み始めた。
「あれ……それって」
「ふふ。君にいいかとおもって、取り寄せたんだ」
 スイッチを押すと、ガラスの中でオレンジの房が攪拌され、あっというまに澄んだ橙色の液体に変わった。コップにその中身を注ぎ、大島は一花の前に置いた。
「どうぞ。作り立てのオレンジジュースさ」
 朝の光が溶け込んでいるような、元気が出る色。一花はまじまじとそのジュースを眺めた。
「わぁ、すごい」
 大島は満足気に微笑んだあと、お皿を持って一花の隣に座った。
「朝食だよ、天使ちゃん」
「もう……また賢治さんは」
 からかっているのかと未だに一花は思ってしまうのだが、どうやら彼は真剣に言っているようなのだった。
 ……正直、まだ慣れない。けれど一花の目は、目の前のお皿の中身に奪われた。
「わっ、フレンチトースト……! クロワッサンもっ」
 ハチミツのかかったフレンチトーストの上には、可愛らしく賽の目切りにされたイチゴと生クリームが載っている。クロワッサンのお皿には、鮮やかなフレンチサラダが添えられていた。
「おいしそ……」
「さぁ、どうぞめしあがれ」
 しかし、一花はちょっとバツが悪かった。
「すみません。寝坊したうえに、朝食まで作ってもらって……」 
「なぜ、そう遠慮するんだい。私は君の夫なんだから。もっと甘えてほしいね」
うつむく一花に、大島はフォークを差し出した。
「ほら、あーん」
 ハチミツのかかった、甘いトーストの誘惑は、羞恥や気後れよりもよほど強かった。
「い、いただきます……」
 軽く焼き目のついたトーストは、甘い卵液が沁み込んでふわふわだった。朝からこんな豪華のものを食べるなんて。一花はちょっと罪深い気持ちで、目を閉じた。
「とっ……ても、甘くて美味しいです」
「それはよかった」
「ありがたく、いただきます」
 大島からフォークを取り戻して食べ始めた一花は、しかしある事に気がついた。彼の分の、オレンジジュースがない。
(そっか、あのジューサー、一回で一人分しか作れないのか)
 一花は席を立ち、もう一つコップを持ってきた。
「どうしたんだい、一花」
「せっかく作ったオレンジジュースですから……」
 一花は自分のコップのジュースを半分注いで、大島の前に置いた。
「半分こしましょう? きっと美味しいから、賢治さんも飲んでください」
 すると彼は嬉しげに目を細めた。
「おやおや。そんな事してくれなくてもいいのに」
「いえ! 美味しいものは、家族分け合うべきです」
 一花は真面目に言った。だが。
「君の、そんな優しいところが好きだよ。ただ……どうせ分けてくれるのなら、今度こそ一花に飲ませてほしいなと思ったのさ」
 その言葉に、一花の動きがピタリと止まる。
 そう言えば……そんな事が、あったような。
「えっ……と」
「今は夫婦になったわけだし……問題ないだろう?」
 大島は、試すように一花を楽し気に見ている。
 ハチミツのような甘いまなざしにからめとられて――あの時はそらす事ができたが、今はもう。
「くっ……一口、だけなら」
 抗うことが、できない。それに、大島に喜んでほしいという気持ちすらあるのだ。
一花はオレンジジュースを少しだけ口に含んで、そっと大島に口づけた。
 零れないほどの、ほんのちょっとだけ。オレンジの爽やかな甘みが、二人の唇を通して浸透していく。
「ふふ……ありがとう一花。夢がかなったよ」
 唇を離したあとそういう大島の表情は、なぜだか少し、切なげだった。だから一花は、にわかに不安になって、彼を抱きしめた。
「おや、どうしたんだい」
 大島は優しく一花を抱き返して、頭を撫でた。一花は照れまぎれに自分の気持ちを伝えた。
「賢治さん、これからはずっと、一緒なんですから……もっと大きい夢を、考えてくださいっ」
「大きな夢、か……」
 彼の手が、一花の手から腰へ向かう。その手つきに、思わずぞくっと身体が震える。しかし大島はそのまますっと一花の身体を離した。
「君と行ってみたい場所が、私にはたくさんあるよ。君は?」
 そういえば、オーソドックスなデートをあまりしていないかもしれない。ふと気が付いた一花は、思いつきで言ってみた。
「そうですねぇ、私は、舞浜ランドとか行ってみたいです。」
「よし、なら今日、行ってみようか」
「えっ!? でもチケットとか」
「私に手に入らないチケットはないさ」
 いつも大島は、即決だし唐突だ。その行動力に驚かされる事もしばしばだが、隣でそれを体感するのは、楽しい体験でもある――。一花はすでに、それを知っていた。
 ワクワクする気持ちが、胸の中に広がる。
「はい! わかりました! これを食べたら、出かける準備しましょうっ」
 
 もぐもぐとフレンチトーストを頬張る一花を見て、大島の笑みは蕩けそうに柔らかくなる。
 ――休日の朝。愛しい人が隣にいる喜び。
 新しい家族、という大きな夢はもちろんあるのだが……。
 寄り添う二羽の番のように、軽やかで身軽で、そしてとびきり甘やかなこの時間を、もう少し味わっていたいと思うのだった。


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