雲南の廃鉱山から運ばれた新型コロナ近縁ウイルス

第3回

 2012年、中国南西部雲南省にある廃銅鉱山の坑道で、コウモリのふんを集めていた作業員6人が重症の肺炎にかかり、うち3人が死亡した。なんらかのウイルスに感染したことが原因と考えられたが、その感染源として坑道をねぐらにするコウモリが疑われた。1000km以上離れた、湖北省の省都・武漢市にある武漢ウイルス研究所の研究チームがこの廃鉱山に入り、コウモリ(ナカキクガシラコウモリRhinolophus affinis)から採取したコロナウイルスが、感染者から検出されたものと一致した。ヒトに対して高い病原性をもつこのコウモリコロナウイルスのサンプルは、冷凍されて武漢ウイルス研究所に送られ、「RaTG13」と呼ばれることになる。

 ちなみに、RaTG13はナカキクガシラコウモリ=Ra+廃鉱山のある町・通関トングァン=TG+発見された年=(20)13を示す。ナカキクガシラコウモリはRaTG13に継続的に感染するものの、ほとんど症状が出ない「自然宿主リザーヴァー」(保有宿主または保因宿主ともいう)であると考えられた。

 RaTG13はその後武漢ウイルス研究所で保管、研究された。同研究所のシー・ジェンリー(石正麗)博士らは、2020年1月にいち早くSARS-CoV-2(当時はn-CoV-19と呼ばれていた)の全ゲノム配列を解明したが、その論文のなかにはRaTG13とSARS-CoV-2 の全ゲノム配列が96.2%一致していたことが記されていた。RaTG13は、それまでに知られているなかでSARS-CoV-2に最も近縁なウイルスであり、SARS-CoV-2もコウモリ起源であろうと推測している。この論文は未査読論文を掲載できるプレプリントサーバーのbioRxivにまず投稿され、その後査読論文としてNature誌に掲載された[1]。実はこの論文が、RaTG13あるいは他の近縁ウイルスが研究の過程で遺伝子変異を繰り返して(あるいは遺伝子改変されて)SARS-CoV-2となったのではないか? それが漏出してしまったのではないか? という疑惑を生むきっかけともなったのである。

 武漢ウイルス研究所は、中国科学院に所属するウイルス・微生物の研究機関で、とりわけコウモリコロナウイルスやSARS近縁コロナウイルス(SARS-rCoV)の研究では世界のトップレベルにある。同分野の研究リーダーであるシー博士は、フランス・モンペリエ大学医学部で学位を取得、2002〜2003年に中国で発生した新型肺炎「重症急性呼吸器症候群(SARS)」の原因ウイルスであるSARS-CoVがコウモリ起源であることをつきとめるなど、コウモリコロナウイルスに関連した研究成果を次々と発表し「バット・ウーマン」の異名を取っていた。

 さて、COVID-19が武漢市から世界に広がりつつあった2020年2月16日に、リサーチ・ゲートという国際的な研究者の交流サイトに投稿されたある論文が注目を集めた。武漢市内には、武漢ウイルス研究所以外にも感染症対策にかかわる機関がある。武漢市疾病予防管理センター(武漢市疾病予防控制中心、以下武漢市CDC)がそれだ。武漢市CDCでは、人獣共通感染症の研究目的で捕獲された野生生物を飼育しており、その中にナカキクガシラコウモリを含む野生コウモリも含まれていることが、同センターの研究紀要に記されていた、と論文は述べる。武漢市CDCと華南生鮮卸売市場は直線距離でわずか280mしか離れていない。簡単にいうと、その研究過程でウイルスに汚染された廃棄物が、不適切な取り扱いによって、外部に持ち出されてしまった可能性があるというのである。

 この論文(「The possible origines of 2019-nCoV coronavirus」)の執筆者は華南理工大学(広東省広州市)のシャオ・ボータオ(肖波涛)博士らで、体裁は論文というより短報に近い。リサーチ・ゲートは自分のページに自由に投稿することができるため、第三者である専門研究者による査読は経ていないし、科学的な検証を経た根拠エビデンスも示されておらず、推測(よくいえば状況証拠)を積み重ねただけだともいえる。そしてほどなく、シャオ博士のリサーチ・ゲートのアカウントそのものが削除されてしまい、論文も読めなくなった。しかし、そのあわただしさに中国当局の関与があったことをうかがわせ、逆に疑惑を深める格好になってしまった。

 その少し前の2月7日、武漢中心医院に勤務する眼科医・リ・ウェンリャン(李文亮)医師がCOVID-19により死亡した。2019年暮れに、SARSに似た新型肺炎が武漢市内で広がっており、治療に際しては防護服を着用して感染を防ぐよう同僚医師にメッセージを送った人物である。しかし、その時点で武漢市当局も中国政府も新型肺炎の発生を認めておらず、医師に対して感染を防ぐ指導もしていなかった。リ医師の行為は虚偽の拡散で違法だとして警察から訓戒処分を受けてしまう。その後リ医師自身も治療した患者からCOVID-19に感染、治療のかいなく約1か月後に命を落としてしまったのだ。

 2003年のSARSもまた中国からはじまった。その流行初期、中国政府は感染症の発生を1か月間WHOに報告しなかった。それが流行が世界に広がる原因になったと批判された。今回の新型肺炎も、武漢市や中国政府が発生を隠蔽しようとしたのではないかという声が上がったのだった。

 過去のSARSへの対応を含む、中国政府や武漢ウイルス研究所に対する不信感が陰謀論と結びつき、こうしたシナリオ=「研究所漏出説」を生んだのだろう。たしかにRaTG13とSARS-CoV-2のゲノムは、96.2%が一致し、きわめて近い関係にあるといえる。しかし、残り約4%の違いはウイルスの進化速度でみると数十年に匹敵し、SARS-CoV-2とRaTG13が分岐したのは、1969年ころだとする推計もある[2]。武漢ウイルス研究所内でRaTG13が変異して新型CoVになったとするにはさすがに無理がある、という見方が大勢だった。 

 先のシャオ博士の論文が投稿された直後には、中国以外の各国大学・研究機関に所属する著名なウイルス学者・感染症学者ら27名が連名で、「(ウイルスの)起源にかんする噂や偽情報によって迅速かつ公正で透明性の高い情報共有が脅かされている」とし、自然由来ではないとする陰謀論を強く非難、新型コロナウイルスは近年出現した他の動物由来感染症同様、野生動物が起源だとする声明を、有力医学誌『The Lancet』のサイトで発表した[3]。武漢ウイルス研究所も、感染力のあるRaTG13は研究所内に保管されておらず、したがって研究所から漏出した可能性はまったくないと主張した(ただし、これは中立的な第三者機関によって確認されたものではない)。

 次節で詳述するが、SARS-CoV-2が含まれるコロナウイルスの表面には、多数の突起(スパイク)が突き出している(図)。このスパイクは、糖鎖におおわれたタンパク質でできていて、感染の際に重要な働きをする。SARS-CoV-2のスパイクタンパク質(S)タンパク質は、ヒトの細胞表面に一部が突き出しているACE2という酵素と結びついて、細胞内に侵入(感染)する。

図 新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)の構造
出典:東京都健康安全研究センター

 フランシス・クリック研究所(イギリス)などの研究グループは、SARS-CoV-2とRaTG13のSタンパク質の構造を低温電子顕微鏡(Cryo-EM)によって比較し、SARS-CoV-2のRBDがヒト細胞のACE2に結合する力は、RaTG13の約1000倍にもなると報告している[4]。両者のSタンパク質のアミノ酸構成はいくつかの部位で異なっており、それが結合力の差となっている可能性があるというのだ。簡単にいうと、RaTG13のSタンパク質は構造的にヒトACE2とは結合しにくいのである。廃鉱山でRaTG13に感染した労働者は、よほどたくさんのウイルスを一度に吸い込んだのだろう。遺伝子組成の上で近縁とはいえ、やはりこの2つのウイルスはまったく異なるものだといえよう。しかし、そのちがいは別のシナリオ=「遺伝子人為操作説」を生むことにもなった。

 この当時アメリカ大統領であったドナルド・トランプ氏ら政権中枢は、「漏出説」や「遺伝子人為操作説」にもとづいてSARS-CoV-2を「武漢ウイルス」や「中国ウイルス」と呼び、中国に対して不信感と嫌悪感を隠さなかった。なかには、「生物兵器」としてつくり出されたものだという主張まであった。

 ここには少し込み入った経緯がある。

 アメリカ・ニューヨークに本部を置く非営利研究機関エコヘルス・アライアンスは2008年以来、アメリカ国立アレルギー・感染症研究所(NIAID)の助成金を得て、武漢ウイルス研究所とともにコウモリコロナウイルスについて研究を進めてきた。つまり武漢ウイルス研究所のコウモリコロナウイルス研究には、間接的にアメリカ政府の資金が投入されていたのである。この助成金はトランプ政権下の2020年4月に停止された。

 アメリカ政府の感染症対策機関であるNIAIDは、COVID-19対策でも中心をになってきた。1985年から所長を務めるアンソニー・ファウチ氏(2022年に辞任)は、マスク着用や社会的距離の確保など厳しいCOVID-19対策を主張し、COVID-19を軽視するトランプ氏に煙たがられていたことが知られる。

 武漢ウイルス研究所とエコヘルスアライアンスは、共同で20本以上におよぶコウモリコロナウイルスに関する論文を『Nature』や『The Lancet』など主要な科学誌・医学誌に発表しており、その研究活動は高く評価されていた。SARS-CoV-2感染流行の初期にも、コウモリコロナウイルスに関する論文を共同で発表している[5]。同論文は、ウイルスが感染した細胞内で増殖する際に必要な酵素であるRNA依存RNAポリメラーゼ(RdRp)と呼ばれる酵素の比較から、おもに中国南西部および南部のコウモリ類から採取されたウイルスの系統解析をおこなったもので、なかでもナカキクガシラコウモリとマレーキクガシラコウモリ(R. malayanus)が、SARS-CoV-2に近縁のコロナウイルスを保有していたとしている。さらに論文は、コウモリの種間および属間でコロナウイルスの伝播が頻繁に起こっていること、キクガシラコウモリ科のコウモリがコロナウイルスの種間伝播と進化に重要な役割を果たしていること、中国南西部〜南部がキクガシラコウモリ類の発祥地であると同時に、コロナウイルスの進化と多様性にとって中心的な役割を果たしてきた可能性があることを示している。

 新たな感染症を引き起こすリスクのあるコウモリコロナウイルスの探索研究が大きく進展するなか、その重要なプレーヤーである武漢ウイルス研究所のいわばお膝元で、今回のパンデミックが起こってしまったのである。

 2021年1月から2月にかけて世界保健機関(WHO)と中国政府が合同で実施した、SARS-CoV-2の起源にかんする現地調査では、①動物からヒトへの直接感染、②媒介動物を介した感染、③冷蔵・冷凍食品流通を通じた感染、④研究所からの漏出事故、の4つのシナリオを検討した結果、②が最もありうる経路だとし、①、③についても可能性があるとしたが、④はほとんどありえないと結論づけている[6]。ただ、中国側が調査範囲を限定するなど十分な調査が行われなかったとして、さまざまな研究者らがWHOや中国当局に対して、客観的で透明性・独立性の高い調査の実施を求める声明を、科学誌上などで発表した[7]。

 WHOと中国の合同調査結果が公開されたあとも、「漏出説」が収まることはなかった。アメリカ国内では共和党議員や保守系の一部メディアが武漢ウイルス研究所からの漏出シナリオや遺伝子操作説を主張しつづけ、保守系のウォールストリート・ジャーナル紙は、武漢ウイルス研究所の3人の研究員が2019年11月にCOVID-19や季節性かぜにみられる症状で病院を訪れた、とする記事を2021年5月23日に掲載した[8]。この情報は、トランプ政権時代の末期に、ある諜報機関から報告されたものだという。アメリカでは、よく知られた中央情報局(CIA)だけでなく、さまざまな部門が独自の諜報機関を有しており、全部で16もの諜報機関がある。そのそれぞれが独自にSARS-CoV-2の起源にかんする調査を進めてきていた。

 2021年にトランプ氏に代わって大統領に就いたジョー・バイデン氏も、こうした疑惑を放置できず、同年5月に諜報機関を統括する国家情報長官に詳しい再調査を命じた。8月にバイデン氏に提出された報告は、SARS-CoV-2の起源について、生物兵器説を否定し、遺伝子操作によってつくりだされたこともほぼありえないとしたが、動物からの感染と研究所に関連した何らかの(漏出)事故はいずれもありうる仮説だとして、結論を出すには至らなかった。漏出説が否定されなかったことから、当然中国は猛反発した。さらに2023年2月になって、アメリカ・エネルギー省(DOE)が研究所からの漏出を「確実度(confidence)は低いが最もありうるシナリオ」とした報告書が明らかになって、あらためて漏出説に注目が集まった。

 一方、華南海鮮卸売市場では、SARS-CoV-2に感染可能な野生動物は生きたまま売られていたこともわかっており、欧米を中心とした研究者のあいだでは、動物媒介説が有力になっている。

世界軍人競技会で広がった謎の感染症

 一方で、2019年12月以前から、SARS-CoV-2が中国国外に存在していたことを疑わせる報告もある。ヨーロッパ諸国での新型CoV感染は、2020年の1月〜2月にイタリアからはじまり、そこから旅行者によって各国に広がったことが、感染者のトラッキングから定説となっている。ヨーロッパで最初の感染者が確認されたのはフランスで、1月24日である。ところが、パリ郊外の病院に凍結保存されていた検体を検査したところ、2019年末にインフルエンザ様疾患で集中治療を受けた患者の検体から、SARS-CoV-2が見つかったのだ。患者はフランス国内に住むアルジェリア人の男性で、2019年8月にアルジェリアを訪れた以後に、中国はおろか海外渡航歴はなかった。パリ13大学などの研究者・医師らは、2019年12月下旬にはフランス国内でSARS-CoV-2の市中感染が広がっていた可能性を指摘した[9]。

 さらにさかのぼる2019年10月18〜27日、武漢で開催された「世界軍人競技会(World Military Games)」に参加していた選手たちのなかに、COVID-19に似た症状を発症していた人がいたと、イギリスのデイリーメール紙(オンライン版)が伝えた[10]。

 リオデジャネイロ・オリンピックの女子近代5種競技銀メダリスト、エロディ・クルーベル選手(フランス)もそのひとり。クルーベル選手は、同競技会参加中に発熱や咳などの症状が出た。あれはSARS-CoV-2感染によるものだったことを確信していると語っている。

 英語版ウィキペディアによると、この大会には世界140か国から9308人のアスリートが参加し、28競技316種目を競った。この世界軍人運動会の期間中、クルーベル選手ら多くのフランス選手、さらにほかの国々の選手も、何らかの病原体による感染症に罹ったという。そして、選手たちはその症状を抱えたまま、それぞれの国に戻った、というのだ。イタリアやスペインにも、症状をもったまま帰国したアスリートがいたとされる。中国外務省の報道官が「SARS-CoV-2がアメリカからもちこまれた可能性がある」とSNSに投稿したのは、世界軍人競技会での謎の感染流行を念頭に置いていたようだ。

 イタリアでは、ミラノおよびトリノの下水処理場で保管されていた2019年12月のサンプル水から、SARS-CoV-2のRNAが検出され、イタリアで公式にCOVID-19患者が確認された2020年1月末よりずっと以前に、新型CoVがイタリアにもち込まれて感染が始まっていた可能性が指摘されている[11]。

 ほかにも謎がある。これまでの実験から、SARS-CoV-2は逆にキクガシラコウモリ類に感染しにくいようなのだ。SARS-CoV-2の中国南部〜東南アジアにかけて生息するキクガシラコウモリの一種であるR. macrotisのACE2(bACE2-Rm)への結合性は、ヒトACE2(hACE2)に比べるとかなり低いと、中国科学アカデミーなどの研究グループが報告している[12]。

 もしキクガシラコウモリの仲間が起源であれば、SARS-CoV-2はなぜヒトにより感染しやすいのか。やはりコウモリから直接ではなく、コウモリから別の動物に感染し、その集団内で変異してヒトに感染しやすい性質をもつようになったのか。それとも……。<つづく


[1] Peng Zhou et al.:A pneumonia outbreak associated with a new coronavirus of probable bat origin, Nature, published 03 February, 2020

[2] Maciej F. Boni et al.:Evolutionary Origins of the SARS-CoV-2 Sarbecovirus Lineage Responsible for the COVID- 19 Pandemic, Nature Microbiology, published 28 July, 2020

[3] Charles Calisher et al.:Statement in support of the scientists, public health professionals, and medical professionals of China combatting COVID-19, The Lancet, 395(10226), March 7, 2020

[4] Antoni G. Wrobel et al.:SARS-CoV-2 and Bat RaTG13 Spike Glycoprotein Structures Inform on Virus Evolution and Furin-cleavage Effects, Nature Structural & Molecular Biology, published online 09 July, 2020

[5] Alice Latinne et al.:“Origin and Cross-species Transmission of Bat Coronaviruses in China”, Nature Communications, published 25 August, 2020

[6] World Health Organization:“WHO-convened Global Study of Origins of SARS-CoV-2: China Part Joint WHO-China Study: 14 January-10 February 2021”, 30 March, 2021

[7] たとえば、Jesse D. Bloom et al.:“Investigate the Origins of COVID-19”, Science, 372(6543), 14 May, 2021

[8] Michael R.Gordon, Warren P.Strobel and Drew Hinshaw:“Intelligence on Sick Staff at Wuhan Lab Fuels Debate on Covid-19 Origin”, The Wall Street Jouranal, May 23, 2021

[9] A. Deslandes et al.:“SARS-CoV-2 Was Already Spreading in France in Late December 2019”, International Journal of Antimicrobial Agents, available online 3 May, 2020

[10] Ross Ibbetson:“Did European athletes catch coronavirus while competing at World Military Games in Wuhan in OCTOBER?” Daily Mail Online, 6 May, 2020

[11] Giuseppina La Rosa et al.:“SARS-CoV-2 Has Been Circulating in Northern Italy since December 2019: Evidence from Environmental Monitoring”, Science of The Total Environment, 750(in progress), available online 15 August, 2020

[12] Kefang Liu et al.:Cross-species recognition of SARS-CoV-2 to bat ACE2, PNAS, 118(1), 2021

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