見出し画像

原発事故で故郷を奪われた浪江町赤宇木行政区の記録

 福島県から分厚く重い本が届いた。差出人はいまは白河市に住むKさん。浪江町の内陸部にある津島地区赤宇木行政区の区長だ。阿武隈高地の山中に位置する赤宇木行政区は、2011年3月の福島第一原発事故で放出された放射能に高濃度に汚染され、13年以上経ついまでも住民は帰還できない。筆者は赤宇木行政区の北部に位置する飯舘村に縁があって、事故直後以来、村内全域の放射能汚染調査に参加していた。村内でもっとも汚染がひどかった長泥地区から、そのころまだ車で通過することができた国道399を南下すると、線量計が長泥よりもなお高い値を叩き出した。その値は、福島第一原発に近い浪江町沿岸部よりもずっと高く、いっときも早くここから立ち去らなければと思う恐ろしいものだった。そこが津島地区だった。2011年3月15日午後、福島第一原発から放出された放射能がクラウドとなって南東の風に乗り、標高の高い津島地区から飯舘村の方面に流れた。そこに雨が降った。大量の放射能混じりの雨が、大地に森に、家々に降り注いだのだ。

 その後、飯舘村で知り合った映像ジャーナリストTさんの紹介で、Kさんたちの調査に参加させてもらうことになった。事故後、毎月、Kさんたちは無人となった赤宇木の家々をまわって、線量を測り記録しつづけていた。一軒一軒の敷地内で線量計を読み、記録していく淡々とした様子は、事務的にルーティンワークをこなしているようにすらみえた。しかし、事故後3年経ってもKさんたちが読み上げる線量計の数値は驚くほど高かった。無住の家々は傷み、野生の獣がばっこし、米が実っていたはずの田んぼにはヤナギがはびこっていた。地区は森に飲み込まれはじめているようにみえた。

 事故の年の秋、福島市内であった国の説明会で「津島地域は手をかけなければ100年は帰れないだろう」と聞かされ、生きているうちには戻れないと覚悟したKさんら地区の人たちは、先祖が築き積み上げてきた赤宇木の歴史や文化・風習、事故前にあった日々の営みを、そして事故の実相を、後世にどうやって残し伝えていくかを考えた。原発事故で故郷を追われてから13年、その思いがようやく形になった。それが冒頭の分厚く重い本、『浪江町赤宇木の記録 百年後の子孫(こども)たちへ』(赤宇木記録誌編集委員会)なのである。同書には、赤宇木の成り立ちや由来、産業、飢饉の記録、近世から近代の地区の歩み、方言や年中行事、農具・山仕事の道具、地区に住む1軒1軒の紹介、石仏や石塔などが詳しく記される。そして、何より異色なのは、Kさんたちが記録した線量値の推移が、1軒1軒克明に記録されていることだ。その数値は事故直後からは大きく下がっているが、2018年以後は減り方がゆっくりでグラフはほぼ横ばいにみえる。短寿命の核種はほぼ崩壊してしまい、残っているのは半減期が約30年のセシウム137。120年経ってようやく16分の1になる。


 地区の人たちはすでに散り散りばらばらになってしまった。100年後に、はたして子孫が赤宇木に帰ってくるかはわからないし、帰ってきたとしても、もう事故以前の赤宇木には戻らない。赤宇木だけではない。放射能に汚染された地域はみな、故郷の喪失に直面している。淡々と家々を回り、線量計の数値を読むKさんたちのなかに閉じ込められていた哀しみと憤りを、いまあらためて想像する。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?