死神の幸福理論 2016.9.5

※弊ブログ、空想異次元論争からの引っ越し記事です


さて、皆さんは「死」をどうお考えでしょうか?
天国か地獄か、はたまた無か
考えは人それぞれ、宗教によっても違いますね
まぁ宗教は死生観と隣接してるものでして、人間は死が基本的には怖いから神様に救いを求めたり善行を積んで死んだ後もいい世界に行こうとしてるんですね

子どもが死がわかるのはおぼろげな記憶だと小学校低学年からだそうです
死んだ人が生き返らないことを理解できる
死んだら終わってしまうことを理解できる
だから死を恐れるようになる

またいい子にしてないと地獄に落ちるぞ、というのは昔はよく悪さをする子供に言っていたのでしょうか、最近は聞きませんが
地獄の概念はそもそも死を理解してないと成り立たないもので
死んだ「先の世界」があると信じることで安心を図り、その先の世界をより良いものにするため、と言えば聞こえはいいですが自分も存在するのかわからないものを持ち出してとりあえずいい子にさせようという大人のずるい言葉に思えます


なんか長くなりましたが言いたいことは人間というのは天国とか言い出すくらい死んだ先に希望を持ちたい、つまり死は恐ろしい、不幸で忌避すべきものだと大抵考える、ということです


バッドエンドと呼ばれる終わり方も大抵主人公や仲間が死んでしまう、もしくはそれに近い状況になることが多いですね
過敏な人だと誰か死んだだけでバッドエンドだ、こんなのを私は見たかったわけじゃない、と言い出しそうですね


でも

でも、本当に、死んでしまうことが直ちにイコールバッドエンドなのでしょうか

ものすごくわかりやすい例を出します

ある人がいました。
ある人は余命幾許かの病気の末期でした。
ある人には大切な恋人がいました。
恋人はある人の病気を治すためにたくさんの努力をしましたが、報われることはありませんでした。
それでも2人は愛し合っていました。
ある人はその努力を嬉しく思いながらも、もう治らないと思っていました。

ある人は海が好きでした。
最期の夜、病院を抜け出し浜辺に来た2人は思い出を語り合いながら過ごしていました。
そして夜が明けて、ある人は最期に君とここにこれてよかった、と言い残しこの世を去りました。


さて長くなりましたがどうでしょうか?
この話はバッドエンドでしょうか

確かに主人公は恋人の努力虚しく死んでしまいました
でもこの話をただのバッドエンドと切り捨てても良いのでしょうか


これをバッドエンドと断定できない要因の1つとして、「登場人物が幸せかどうか」があります

解釈は人の数だけありますが、私はあの話を「2人とも幸せである」と仮定しながら書いています

死は不幸である、そのことは間違ってるとは言えません
だって誰かが死んだことを「不幸があった」と言いますし、生き残った側からすればもう会えないんですから

しかしそれは現実での話です
物語ではどうでしょうか
バッド「エンド」という以上終わりがある、つまり「物語」がありすなわち「フィクション」であるということです

フィクションなら何やってもいいと言いたいわけではないです
しかしその登場人物の死を現実に引きずらず、あくまで客観的に見れるのが物語もといフィクションのいいところだと思っています

私が言いたいこと、わかる人はもうお気づきだと思います

そうです、某おじさん風にいうとメリバは いいぞということになります

説明しよう!メリバとは!メリーバッドエンドの略である!
いつからできた言葉かはわからない!各自でググりましょう!
メリバとは!周りの状況的にバッドでも本人はハッピーな状態をさす!(※わりと個人的解釈です)

そして本題をいうと!過去にも似たようなこと言ってますが!花京院の死はメリバじゃないか説を唱えたい!です!!
導入が長すぎるね!

今回はとても厨二なタイトルにもあるように「幸福かどうか」について焦点当てていきたいと思います


結論から述べると花京院が死んだタイミングは彼の人生の中で「最高に幸福な時」であったと思っています

突然ですがフランスの映画で「髪結いの亭主」という映画があります
ご存知の方も多いのではないでしょうか
私が知ったのは私が好きなアーティストの曲の元ネタになっていたから、ですが
その主人公、マチルダは髪結いをしながら旦那といちゃいちゃと幸せな生活を送っていました
幸福度を測るならもうマックスの状態です
しかしマチルダはその幸せが長く続かないと思い至ります。そしてそれを不安に思います
そしてマチルダはその「人生で最高に幸せな瞬間」を留めるために、「幸せを永遠にするため」川に身を投げます
ストーリー間違ってたらごめんなさい


「死」はさっき言った通り「終わり」です
天国を夢見ない限り、閻魔様がいない限り、死んだら何もありません

逆に言うと死んだら幸福が上に上がることもなく、下に下がることもないのです
生きていれば無限の可能性があります
よく言えばもっと幸せになれるかもしれません
でも、悪く言えばもっと不幸になるかもしれません

自分が「今最高に幸せだ」と思う時、未来に待つのはなんでしょうか

「(相対的な)不幸」ですね

言いかえればてっぺんまできたジェットコースターです
1番高いところにいるならば落ちることなんてわかりきっているのです

「そんな今が1番幸せとは限らないじゃないか」と思うかもしれませんが、幸福はあくまで主観的な尺度であり、幸せを決めるのもわかるのも本人しかいません


花京院に話を戻します
彼の未来予想は前にも話しました

あくまで彼の性格がそのままであったら、という仮定の話ですが彼の未来は明るくないと当時の私は考察しましたし、今もそう思ってます
何年かしたら性格くらい変わるんじゃね?と友人に突っ込まれましたが17年孤独を拗らせて醸成されたのがアレだと思ってるのでそう簡単に変わらないと思うのですが、どうでしょう?

それを置いておいても、今まで理解者もなく苦しみ、しかもそれをダシにDIOに利用された彼にとって、承太郎たちと出会って「理解者」を得て、DIOに立ち向かい「誇りを取り戻した」あの最期の戦いは「最高に幸せな瞬間」だったのではないかと思います
もちろん私の価値観からすれば、ですが

幸福は主観的であり、相対的なものです
今まで底の方にあった彼の17年の幸福度は圧倒的な50日の前では遙かな高みだと思われます

不幸から幸福への移り変わりが激しいほど、自分が幸せだと感じられます
逆もまた然りですね
いいことあった日についてないのと何にもない日についてないのでは、ショック度は前者の方が大きいのではないでしょうか


仮に彼が生き延びた後もそれなりに幸せに暮らせるとしても、あの戦いの瞬間に勝る幸せはもう手に入らないのです

最高の幸せの後にはたとえ普通の状態でも不幸になるのです
それどころか人生常に幸福なわけないので不幸があれば相対的にもっと辛くなります
某七様の歌詞を借りると「深い悲しみは至福(しあわせ)を糧に育つ」のです


なんか言ってることが宗教家じみてきましたがそうじゃないのでもう少しお付き合いください


それ以上の幸せがないにしても死ぬことないじゃないか、って思う人、たくさんいると思います
でもそれは現実では、そうなんです
現実では、死は不幸です(もちろん例外もあります)
相手が最高に幸せだからといって殺していい理由にはなりません

あくまで物語の話をしたいのです


物語の中の死は不謹慎を纏いません
どう死なせようが作者の勝手です
その死に様を「悲しい」ととるか「良かった」とるかは読み手の勝手です
「死んで良かった」と思っても不謹慎にはならない、と私は思います。だってフィクションだし
問題なのは死んで悲しいと思ってる人に死んで良かったじゃんとか言っちゃうデリカシーの無さだと思います

だったら、死んでしまうなら、「良かった」と思える方が「幸せ」ではないでしょうか

もう二度と笑うことも喋ることも歩くこともなくなってしまうけど、
もう二度と悲しむことも泣くことも傷つくこともなくなるんです

物語の中に「死は悲しく不幸なものだ」という現実の価値観を持ち込むから、安易なハッピーエンドが量産されるのです

ジョジョの好きなところの1つとして「意味のない死に方をするキャラがほとんどいない」ところがあります
花京院もそうだしシーザーやブチャラティ、その他にもたくさんのキャラ達は自分の運命を全うして散っていきます

そのキャラの死が輝くからこそ物語として素晴らしい終わりになるのだと思います


逆に言うと「死」をポジティブに捉えて許されるのはフィクションの特権ですのでね!
ノンフィクションはシャレにならないのでね!

さてここでこれまでの話を台無しにすることを語りますと、
この「幸福な死」を拗らせると周りも本人もハッピーより状況が凄惨でも本人がハッピーな方が好き!という思考に陥ってしまいます
まぁ私のことなんですけど

メリバはハッピーエンドかバッドエンドか、といわれたらバッドエンドです
が、あくまでメリバおじさんは好きキャラの「幸せ」を願っています
さっきも言ったように不幸があればあるほど幸福が引き立つのです
つまるところキャラの幸せを見たい、楽しみたいがために外堀をダイナマイトで爆破していく鬼畜の所業をしはじめます
そしてキャラに瓦礫をぶつけながら「こんな状況でも幸せだと思える○○鋼メンタル!強い!すごい!」とかほざきだすのです
まぁ私のことなんですけど


メリおじ管理人的に花京院の死に方がいいなあ、と思うのは「幸せが1人で完結してる」ところです

私も例に出しましたが定型的なメリバは大抵恋人や大切な人がセットになります
心中とかもいい例ですね
1番大切な人の後を追ったり、1番大切な人に看取られる最期は、確かにキャラは死にますが本人は幸せだし私はそれをぐへへと思いながら読みます気持ち悪いですね


でも花京院は違った
いや彼がぼっちだとか彼女いないとかチェリー(意味深)だとか言いたい訳ではないですが、花京院は自分の中だけで幸せを仕舞い込んで特に共有することなく死んでいきました
誰かに過去のことを話してれば話は別ですが、最後DIOとの戦いの中唐突にモノローグで語り始めたところを見るに話して無さそうですね
(そもそもジョジョ自体心理描写があんまないからあのモノローグは珍しい)
まぁそれだけにスタクル視点で見ると彼の胸中を推し量ることってできないんですよね
特にジョセフは彼の勇気と誇りを認めつつもまだ若かったのに、くらいは思ってそうですが
誰も彼の人生が終わって良かったなんて思わない
(スタクルさん仲間半分減ったけど帰りの空港でわりとさっぱりしてるのは気にしない。メソメソしない性分なんだろうね)

状況的に不幸だけど本人幸せ、幸せというか満足に近いけど、満たされてる状態。やることやったし、考えると勇気が湧いてくる仲間も出来たから

まぁこの考察の一番の問題点は花京院のラストをメリバの一言で片付けるようになってしまうことですけどね


でも、まぁこれも繰り返しになりますが、彼の死は悲劇ではなく、物語の中で必要のあることで、意味のある死でした
彼は生き切りました
だから、悲しむなとは言いませんが、必要以上に悲しむ必要はないのです
だって、物語の登場人物なのだから、美談で飾り立てても不謹慎になりません
「死」を「美しい」と堂々と言えるのはフィクションの特権ではないでしょうか?

これは、花京院以外の、ジョジョ以外のキャラにも言えることだと思います

この考察が、これを読んだ物好きなあなたの押しキャラ死んだ!なぜだ!悲しい!の一辺倒にならず少し考え方の幅を広げる助けになればいいなと思ってます

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