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市井のすごい人 満洲の肝っ玉母さん

本当にすごい人は市井の中にいる気がします。大谷翔平選手や藤井聡太棋士など最近では異次元のスーパーマン的なすごい人が誕生しており、その前の王さんや長嶋さん、イチローさん、羽生善治元七冠がかすんで見えるくらいのすごさがあります。羽生さんと書いてはにゅうさんと読む羽生結弦さんもオリンピック2連覇と、これまでの日本フィギアスケート界では考えられない偉業を達成されましたね。
これからの日本には、私たちの想定外のすごい人たちが他分野でもあらわれてきそうですね。そんな気がします。
スポーツ界や将棋界ではとんでもない異次元のスーパースターが誕生していますが、政治の世界ではそんなスーパースターがあらわれる気配がありません。今の日本の政治家では百年後の日本で名前を憶えられている人はいるでしょうか?
2023年の6月現在、岸田首相の秘書官だった息子が総理公邸で親族を集めて忘年会をしたことが顰蹙(ひんしゅく)をかい、総理秘書官を辞職しました。悪事でもスケールが小さいです。父親が総理大臣になったので、そのせっかくの特権?を使ってみようと思っただけではないでしょうか?
すごい人の出現は元気と勇気と明るさを人々に与えてくれます。スポーツ界などではすごい人の出現は期待できますが、政界ではあまり期待できそうにありません。
でも、がっかりしないでほしいです。市井の、無名の人の中にもすごい人はいるんです。名が知られていない、有名でないからすごいことが伝わってこないのです。また、無名の人だから、知られていない、自分たちのすぐ隣にいる人だから、すごいと思わない、感じないのからかもしれません。
私のまわりにもいました。
すごい人が。
妻の祖母です。
何だ、身内自慢じゃないかといわないでくださいね。
この人は1895年(明治28年)に広島県の瀬戸内海にある豊島という小さな島(現在は呉市)に生まれました。20歳で結婚し、義父が経営する満洲の吉林のホテルの手伝いをするため、夫婦で満洲に渡りました。6年後に義父が亡くなったこともあり、実質的にホテル「日清ホテル」を経営することになりました。吉林は満洲の京都といわれるほどの風光明媚な都市で、日清ホテルは満鉄のヤマトホテル系列のナゴヤホテルと覇を競うホテルに、吉林では発展していたそうです。
終戦後、ソ連軍が進駐し、ホテルの二階はソ連軍の司令部にされました。ホテルは街のランドマークになり、祖母も街の名士になっていたので、家をなくした人たちがホテルに身を寄せていました。しばらくすると、ソ連軍の将校はホテルの全館接収を提案してきました。実質的には命令です。当時、吉林の日本人は進駐してきたソ連軍兵士や日本人以外の人たちから略奪や暴行、強姦などの被害を受けていました。日本人会の幹部のもとには日本人から暴挙を止めてもらえるように要請が殺到し、日本人会の男性幹部たちがソ連軍司令部に兵士らに止めるよう指導してほしいと懇願しましたが、「我々が占領したところのものは全て我々の財産だ、どう我々が使おうが勝手だ」と一蹴されました。当時の満洲では、ソ連軍や兵士に反抗して、突然行方不明になったり、帰ってこない人もおったそうです。
そんな情勢の中のホテルからの立ち退き要求です。理不尽な要求でも従うしか方法はありません。祖母は一大決心をしました。みんなの前で正々堂々とソ連軍の将校と話をしようと考えました。大勢の人がいれば、強引に連行されることもないだろう、そんな読みもありました。日清ホテルに居住者全員に集まってもらい、ソ連軍の幹部と話し合いの場にのぞみました。ソ連軍将校がホテルの全館明け渡しを要求しました。祖母は尋ねました。「貴国は人民の国でしょ」将校は「そうだ」自信たっぷりと答えました。祖母は一言一言、力をこめて、「人民の国なら人民を路頭に迷わすことは出来ないでしょ。私のもとには守ってくれると思い、ここに来た人たちがいます。彼らは日本の人民です。私は彼らに頼られているのです。私は人民を守らなければなりません。ですから、ホテルの全館接収はあきらめていただけませんか」と言いました。
ソ連軍のゴンチャロフ将校は「うん、わかった」と言って引き揚げていきました。
奇跡のような出来事でした。祖母の坦力と勇気、熱意、心がゴンチャロフ将校の心を動かしたようです。
日本への引き揚げまでの1年余りを、全員が日清ホテルに居住し、無事日本に帰還を果たしました。
祖母は身分の上下に関わりなく平等に人と付き合う人でした。ですから、たとえ偉い人でも臆せずモノが言える習性が身についていたので、ソ連軍将校に堂々とモノが言えたのだと思います。従業員に対しても心配りができる経営者でした。入社して2,3か月の従業員が寝坊して、朝のボイラーをたく時間に遅刻したとき、すでに祖母が来ていて無事ボイラーがたかれていました。特に寝坊を咎めるわけでなく、満洲に来た時の思い出話を聞かせてくれたと、この従業員はのちに語っていました。
ホテルに物乞いが来ても追い払うことはせず、お菓子等を必ず与えていたそうです。祖母は相手が業者で、こちらが客のときでも訪ねてこられた方に「から茶で帰すことはするな」と周りに人に常日頃から言っていました。ですから、孫の、私の妻は我が家に来られたお客さん、セールスの人でもお話をするときには、必ずお茶菓子をつけてもてなしています。
祖母は故郷豊島では立志伝の人になっていました。ホテルの従業員に故郷の人たちを積極的に雇い、地元の社寺や学校等で資金が必要なときには、満洲の祖母のもとに寄付を求めに行くのが通例になっていました。3万、5万と多額の寄付をして、今でも豊島の豊浜中学校の顕彰碑などにその行為が記してあります。
これだけですと、事業で成功した人の立志伝にもよく似たことが見られますが、祖母の行動は戦後日本に帰ってからも、そのすごさがあらわれています。といっても華々しい成功談ではなく、一市井人としてのすごさです。まさに満洲の肝っ玉母さんです。
祖母は日本でもホテル経営を試みようとしましたが、戦前の満州で蓄えた財産を日本本土の親戚に送り、預かってもらっていたつもりが、使い込みされるなどに被害にあったり、ホテル用地に不適な土地を紹介されるなど上手くいかないことが重なり、ホテル経営をあきらめざるを得ませんでした。
ホテル経営のような多額の資金を使わずにできる事業として着手したのが、賄付き下宿でした。東京の阿佐ヶ谷で10部屋ほどの小さな下宿屋を始めました。1956年(昭和31年)61歳のときでした。それから20年余り続けました。下宿の学生同士が集団行動を取って外出したときに、心配になり下宿を手伝っていた娘に尾行させところ、健全な社交ダンスクラブだとわかり、安心したというエピソードもありました。現代では少々おせっかいな下宿屋さんでしたが、学生の親御さんんにとっては、安心して子供を預けられるところでした。
こういったフレンドリーでファミリー的な雰囲気のため、多くの学生から慕われました。
数え99歳のときには、旧下宿生の有志の方々が白寿の会を四谷のホテルで開催し、お祝いしました。
賄付き下宿はホテルなどとは異なり、家内労働に近い仕事です。規模の大小の違いはあれど、「お客様に屋根の下で安全に過ごし、泊っていただくのには変わりがない」と生前、祖母は話していました。仕事の本質はかわらないということでしょうか。ですから、下宿のお客様である下宿生から慕われ、学校を卒業してからも学生時代の忘れられない人になっていたのでしょう。
祖母は下宿屋を引退してからも物事に頓着しないおおらかな性格は変わらず、無職の一介の無名のおばあさんにもかかわらず、祖母を訪ねるお客さんは絶えませんでした。そしてほとんどの人が祖母に渡していました。それを使わずに、たまったお金を1万円札に変えて、社寺の賽銭箱に必ず壱万円札を入れていました。
祖母は身長が160センチある偉丈夫で、病気で寝込むこともほとんどなく、健康でしたので、100歳は生きると周りの人たちは期待していましたが、白寿の会の翌年、1994年(平成6年)に自転車にぶつかり、身体を損傷して入院したら、急に衰え100歳を間近に亡くなりました。葬儀の参列者は350人を超えていました。ちょっとした芸能人並みでした。
江戸時代から明治時代にかけて、浄土真宗では苦難を乗り越え、生きる喜びや幸福をつかみ、徳や信仰心が篤い、無学な庶民を妙好人ととして取り上げてきましした。下宿生だった人の中には祖母を現代の妙好人だという人がいます。祖母も小学校を出ただけですが、だれからも慕われ、尊敬された市井の名もなきおばあさんでした。
祖母は故郷の菩提寺の住職に琥珀の数珠を贈ったことがあり、現在の二代後の住職も常にその琥珀の数珠を身につけているのを私に見せてくれました。一檀家から贈られた数珠を三代に渡って受け継ぐ、これは祖母が現代の妙好人である、証明の一つのような気がします。
妙好人の定義に合致しなくても、市井の人で多くの人に慕われ、尊敬される人、現代の妙好人のような「すごい」人を、もっと多くのメディアで登場させる時期に来ているように私は思います。
ロシアが勝手な理屈をつけて、ウクライナを侵攻している暴挙を世界が見ている現在は、妻の祖母のような市井のすごい人がいることを、アピールする絶好のときです。

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