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湖国のさざ波がWAVEに!序章編~滋賀県21世紀に向けての変革~

地味県滋賀の変革


滋賀県は地味な県である。

関東の人に聞いたら、滋賀県がどこにあるのか知らない人が意外に多い。琵琶湖はだれもが知っているが、滋賀県を知らないのが日本の常識かも知れない(笑)。

滋賀県を湖国と呼ぶのをご存知だろうか。全国的にはあまり知られていないが、滋賀県をあらわすには琵琶湖のまわりを囲んで住んでいる滋賀県人にとって、ぴったりの呼称で、私は藩名である近江より普及してほしいと願っている。

滋賀県出身の有名人、偉人を聞かれても、他県の人はなかなか挙げられない。石田三成に井伊直弼、それに続きたいといった滋賀県知事がいた。続けたかどうかの判断は、私にはできないが、滋賀県知事の中では最も面白い存在の知事といってよい。

最近、滋賀県を標榜する人たちが世間に出始めた。まず、2024年の本屋大賞を「成瀬は天下を取りにいく」で受賞した宮島未奈さん。

主人公、成瀬あかりが歩いた大津の場所が「聖地」になっているのだ。アニメのキャラクターが足跡を残した「聖地」はよく聞くが、本屋大賞の小説に出てくる主人公の「聖地」は珍しいのではないか。ましてや地味な大津が、というのが私の印象だ。

ミュージシャンの西川貴教さんがロックフェスティバルを毎年開催したり、観光大使に就任し、滋賀県愛をアピールするのが目立つようになっており、地味な滋賀県の脱皮が進んでいるが、まだ全国的になっていない。

20世紀の後半の30年を滋賀県で過ごしてきた私にとって、愛着のある県であるが、語るときには自虐的になってしまう。

半世紀前に初めて大津駅に降り立ったときと、現在の駅前の構図は変わっていない。県庁所在地の都市が持っている駅前の「存在感」が感じられないのだ。

成瀬の小説の題材になった西武百貨店閉店も、それを象徴しているように見える。

人口増が進んだ滋賀県

大津市は私が住み始めた1972年には人口は18万人で、現在は34万人と約2倍になっている。印象としては人口や住宅は増えて賑やかになっているはずが、街のシンボルとなるランドマークができていない感じだ。

半世紀前、滋賀県の県都、大津市は京都市大津区と揶揄されていた。現在も京都のベッドタウンというイメージは変わりがない。

私は1972年から2001年まで滋賀県に住んでいた。今、県外から滋賀県を見ると、20世紀の後半の30年足らずの滋賀県は、ダイナミックに躍動していた時代だったと確信する。

大都市以外は人口が減り、過疎化が進んでいた時代に、滋賀県は人口が増え続け、1975年の人口98万5000人が2000年には134万人になっていた.(現在は約140万人)

県都の大津市も19万人から28万8000人に増加していた。(最近は34万人前後を増減している)

日本の大動脈道路、名神高速道路に、東海道新幹線が走り、交通の大量輸送が滋賀県を発展させた。東西を伊吹山と比叡山で交通の要所、戦いの要所を握り、近江京遷都や安土城築城で、日本の中心にする動きもあり、地政学上で古今から重要な位置を占めていた。

井伊直弼大老が幕末期に暗殺されて以来、100年以上滋賀県の政治家が日本の中央政府で傑出した場面はあらわれなかった。

一世紀の沈黙からの脱却


滋賀の動きが日本の動きに連動する萌芽が見えたのは1972年(昭和47年)だった。

その年の12月に行われた衆議院議員選挙があった.滋賀選挙区は定数5人で、そのうちの4人を自民党が占め、あと1人が共産党という全国的に見ても特異な形になった。


社会党などいわゆる革新陣営の乱立もあったが、新人の25歳、上田茂行候補の当選が衝撃的だった。大学を卒業して、田中角栄総理の秘書を短期間勤めたに過ぎない無名の青年だ。

私はこの年の4月に、※独立UHFテレビ局のびわ湖放送に入社した。

びわ湖放送は滋賀県が筆頭株主で、滋賀県に取材拠点がある新聞5社と地元の鉄道会社、銀行などが主な株主だった。

いわば第三セクターで、当時の野崎知事の名前を揶揄され「野崎テレビ」ともいわれ、野崎県政の広報機関、二年後の知事選挙の運動機関ともささやかれていた。それが如実に示されたのが、開業したばかりのびわ湖放送のスポンサーだった。

青年がびわ湖に向かって叫ぶ映像が毎週木曜日の夜、二時間の洋画放送枠の「木曜スクリーン」のCMに流されていた。提供は上田建設グループ。見ている人にはわけのわからないCMだったが、半年後に明らかになった。

そう、琵琶湖に向かって叫んでいた青年は25歳の新人当選議員、上田茂行氏、上田建設グループの総帥、上田茂男氏の息子だったのだ。
上田茂行氏はこの選挙で買収で大量に選挙違反者を出したが、テレビCMの放映も今ならだれもが躊躇することがらが、当時はテレビ局内からは疑問の声は上がっていなかった。

一方でその年、行なわれた県都の大津市長選挙で、社会党の県会議員だった山田耕三郎氏が市助役の井上良平氏を2964票の僅差で破り、県内初の革新首長となっていた。

衆議院議員選挙と大津市長選挙が行なわれ、びわ湖放送が開局した1972は、その後の滋賀県の政治、行政、社会がダイナミックに変わる、琵琶湖のさざ波がWAVEに代わるようなとしだった。

二年後の1974年に社会、民社、公明、共産の4党と労働4団体が共闘して知事が誕生したのを契機に西の田中金脈事件と言われた上田建設事件が発覚し、野崎知事と上田建設の癒着が暴露され、元副知事、大津市長選で落選した井上良平元大津市助役が収賄などの罪で起訴された。


上田金脈を徹底的に追及する資料集1976年9月発行



さらに上田建設事件は、滋賀県の社会党の三役が除名される事態にまで至ったのだ。
与党自民党や滋賀県と大津市の三役に野党第一党の社会党までもが、地元の一建設会社、上田建設の軍門に下っていたのだ。

21世紀の今から見れば、とても不思議な現象だった。

盤石と見られた野崎県政の三選を僅差で阻んだ4党4団体の選挙共闘のうねりや、野崎県政を転換させた力は神の仕業があったとしか思えない出来事がその後起こっていった。

今から思えば、19世紀からの沈黙から脱却して、20世紀から21世紀に向けた変革へのヒントを示していたようだ。(次編につづく)


独立UHFテレビ局は関西と関東のネット、および準ネットテレビ局はそれぞれ関西、関東圏の複数都府県をサービスエリアにしており、東京都大阪以外の府県にはテレビ局が設置されていなかったが、全都道府県にテレビ局を設置しようということになり、設置されたテレビ局で、それまでのVHFではないUHF電波を使うため、京都、兵庫、和歌山、奈良、神奈川、千葉、埼玉、群馬、栃木に設置されたテレビ局は独立UHF局と呼んでいた。


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