見出し画像

【治承~文治の内乱 vol.18】 石橋山の戦い

山木兼隆やまきかねたかを討ち取り、伊豆国いずのくにで自立への布石を打った頼朝でしたが、これで順調な滑り出しとはいかない状況でした。なぜなら頼朝には兼隆の他に倒さなければならない厄介な難敵がいたためです。それが東伊豆の伊東祐親いとうすけちかと相模の大庭景親おおばかげちかです。

伊東祐親は東伊豆に勢力を張る有力武士で、伊豆国の知行国主ちぎょうこくしゅが源頼政よりまさから平時忠ときただに替わったのに伴って、伊豆国内で急速に勢力を強めてきていました(※1)。また、頼朝と祐親にはかつて何らかのトラブルがあったことが『吾妻鏡』の記述からうかがわれ(※2)、その間柄も良好なものではありませんでした。

そして、大庭景親は以前(vol.14)お話ししたように”東国の御後見おんうしろみ”として、以仁王もちひとおうの乱に加担した源頼政の子息の追討と東国での反平家の動きを抑制するために都から帰還してきていた武士で、相模国を中心に勢力を張る有力武士団・鎌倉党かまくらとうのリーダー格の人物でもありました(本拠地は相模国さがみのくに大庭御厨おおばのみくりや
そのため、頼朝にとってこの景親を倒さなければ、自らの当面の目標である関東制圧を実現することはまず不可能でした。

そこで頼朝は大庭景親を倒すため、すでに味方として参戦を約束していた三浦氏と連絡を取って、大庭を東西から挟撃することを申し合わせ、頼朝は伊豆国を出て相模国へ、三浦氏は東相模から西相模へ進軍を開始しました。

一方、大庭景親もこうした頼朝の動きを掴んでおり、その対策として伊東祐親と連絡を取り合って、こちらは南北から頼朝を挟撃しようと動き、いよいよ両者対決の時が迫りました。

ちなみに、この時代の合戦で、もっとも有効な戦法はなんといっても挟撃して包囲することでした。挟撃はオーソドックスな戦法ではありますが、兵力差のある相手に対してはやはり有効な戦法で、これが成功すれば頼朝方にも十分勝算がありました。『平家物語』には”中に取り籠む”という言葉がよく登場しますが、この”中に取り籠む”とは包囲されることで、”中に取り籠められてはかなうまじ(包囲されては敵わないだろう)”と、当時の武士は包囲されることを最も警戒していました。
この時の頼朝勢も現在の小田原市街地に近い早川はやかわの河口まで進軍して陣を一旦敷きましたが、地元の武士団である早川党の者から、
「中に取り籠められ候ひなば、一人ものがるまじ」
と、この場所では箱根湯本はこねゆもと方面から回り込まれて包囲される可能性があるとして、来た道を少し戻って山間の地に陣を敷き直したという話が『平家物語』に載っており、頼朝勢も包囲されることを警戒していることがうかがえます。

治承4年(1180年)8月23日。寅の刻(3:00~5:00)。頼朝勢と大庭勢は石橋山いしばしやま付近に到着し、谷一つ隔てて対峙しました。

頼朝勢の陣容は、伊豆の武士たちに、西相模に勢力を張る武士たち、土肥郷どひのごう土肥実平どひさねひらを筆頭に、息子の小早川遠平こばやかわとおひら、実平の弟である土屋宗遠つちやむねとお、三浦氏一族の岡崎義実おかざきよしざね三浦義明みうらよしあきの弟)、義実の息子である佐奈田義忠さなだよしただらを加えた300余騎の軍勢です。

一方、大庭勢は総大将の大庭景親、景親の弟である俣野景久またのかげひさ、鎌倉党の梶原景時かじわらかげとき、長尾新五(為宗ためむね)、長尾新六(定景さだかげ)。その他では海老名季貞えびなすえさだ河村義秀かわむらよしひで渋谷重国しぶやしげくに糟屋盛久かすやもりひさ曾我祐信そがすけのぶ毛利景行もうりかげゆき原宗はらむね?三郎(景房かげふさ)、原宗四郎(義行よしゆき)、並びに熊谷直実くまがいなおざね以下平家に従う者たち3000余騎の軍勢でした。

しかし、両者対峙してもすぐには開戦せずに睨み合ったまま時が過ぎました。頼朝勢は三浦義澄みうらよしずみ率いる三浦勢300余騎の到着を待ち、大庭勢も頼朝の背後を襲うはずの伊東勢300余騎を待ったためです。

そして日が暮れ、黄昏時たそがれどきを迎えた頃。大庭勢の東方に煙が上がるのが見えました。それは三浦勢が進軍する道々で大庭に味方する者たちの屋敷を焼き払っているものでした。景親はただちに軍議を開き、三浦勢が間近に迫ってきており、合戦を明日にすると頼朝と三浦に挟撃されて苦戦するとして、これ以上時を費やすのは下策と判断、すでに黄昏時ではありましたが、先に頼朝勢を蹴散らすことを下知して開戦に踏み切りました。

かくして大庭勢3000余騎は頼朝勢に襲いかかりました。頼朝勢は圧倒的に不利な状況でしたが、皆命を捨てて奮戦したため大庭勢の攻勢を持ち堪え、しばらく激戦が繰り広げられました。

しかし、やはり多勢に無勢。次第に頼朝勢は劣勢となり、頼朝方の武士である佐奈田義忠、その郎党の豊三家康ぶんぞういえやす(文三家安)、武藤むとう三郎などが討死するなど犠牲が増え、頼朝勢はついに退却を始めました。

頼朝たちの退却は困難を極めました。折しも石橋山付近は天候が悪く、雨風ともにかなり強まっており、それは頼朝方の者たちの気力と体力を奪うのに拍車をかけました。そんな中で頼朝は自ら矢を放ちながら必死に逃げますが、一方の景親も頼朝を追わせました。

しかし、ここで頼朝の武運は尽きることはありませんでした。思いがけない味方が現れたのです。その者は飯田家義いいだいえよしという武士で、この者は石橋山では頼朝に味方しようと思って、頼朝の陣に参上しようとしていましたが、前途を大庭勢に塞がれてしまったために、やむなく大庭勢に混じって行動していた者でした。

家義はこの頼朝の危機に際して、自らの手勢6騎を二手に分け、大庭勢を中から攪乱することで時間を稼ぎました。そしてその隙に頼朝は椙山すぎやままで逃れることができました。

しかし、依然大庭勢の落ち武者狩りは執拗に続けられており、頼朝らは予断を許さない状況に追い込まれることとなりました。そうした状況で、頼朝方の将である加藤景廉かげかど大見おおみ宇佐美うさみ)実政らは大庭勢の追撃を少しでも遅らせるべく、殿軍しんがりとして奮戦していました。さらに子や弟らをあたら討たせてはならないと、景廉の父である景員かげかずや兄の光員みつかず、実政の兄である政光まさみつをはじめ、天野遠景あまのとおかげ天野光家あまのみついえ佐々木高綱ささきたかつな堀親家ほりちかいえ堀助政ほりすけまさといった面々がこれを援護して、くつばみを並べて戦ったといいます。

椙山に避難した頼朝のもとには味方の武士たちが続々と集まってきていました。頼朝は喜びの表情を浮かべましたが、すでに頼朝の傍らに控えていた土肥実平は、そんな彼らを再び散らせようとしました。大人数になると隠れづらくなり景親たちに見つかる可能性が高くなるからです。

実平は集まってきた武士たちに、いくら長い年月となろうとも実平が計略をめぐらして頼朝を隠し通すことを約束しました。しかし、彼らは散ろうとしません。さらに頼朝までが、周りに味方の武士が多くいた方が心強いとは思ったのか、彼らの供を許そうとしているのを、実平は重ねて、
「この度の別離は後の大きな幸せのためであって、みんなが命を全うして生き長らえ、計略を外に廻らせていれば、この度の雪辱をどうして果たせないことがあろうか」
と説得して、ようやく一同はそれを心得て、目に涙を浮かべながらもそれぞれまたあちらこちらへ散らばっていきました。

その後、飯田家義が頼朝のもとへやってきて、家義は頼朝が肌身離さず持っていた数珠を戦場から拾って持ってきました。頼朝はなくしたものと諦めていたものが返ってきたとあって、それを大変に喜びました。
そして家義もまた頼朝の供を願い出ましたが、家義も実平に説得されて泣く泣く余所へ落ち延びていきました。こうして頼朝は土肥実平ら地元の武士数騎の少人数で引き続き箱根の山中を彷徨うこととなったのです。

かくして頼朝勢は大庭勢によって壊滅的敗北を喫しました。
そしてこの報告を聞いた都にいる平家も東国の反乱が大事に至らずに良かったと安堵したにちがいありません。
しかし、結果的には、この一時的な勝利が平家の油断を招き、このあと起こる事態の対応に遅滞を生じさせる遠因にもなりました。そういう点からして、この石橋山の戦いの意義も単に頼朝が挫折した戦いというだけではなく、治承・寿永の乱において重要な戦いの一つであったと言えるでしょう。

注)
※1・・・高橋一樹 『東国武士団と鎌倉幕府』 動乱の東国史2 吉川弘文館 2013年 p.43
※2・・・『吾妻鏡』 治承四年十月十九日条

(参考)
上杉和彦 『源平の争乱』 戦争の日本史 6 吉川弘文館 2007 年
川合 康 『源平の内乱と公武政権』日本中世の歴史3 吉川弘文館 2009年
上横手雅敬・元木泰雄・勝山清次
『院政と平氏、鎌倉政権』日本の中世8 中央公論新社 2002年
石井 進 『日本の歴史 7 鎌倉幕府』 改版 中央公論新社 2004年
高橋一樹 『東国武士団と鎌倉幕府』 動乱の東国史2 吉川弘文館 2013年

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか? いただいたサポートはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます。