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【治承~文治の内乱 vol.16】 山木攻め

佐々木兄弟の遅参

頼朝よりとも北条時政ほうじょうときまさは、山木兼隆やまきかねたか攻撃を来たる8月16日~17日(治承4年〔1180年〕)にかけての夜討ちとし、頼朝に味方する武士たちにも16日には北条館に参集するように通知されました。

ところが、16日になっても味方するはずだった佐々木の者たちが来ません。
頼朝はこれをしきりに後悔し、気疲れをしたと『吾妻鏡あずまかがみ』に記されています。

というのも、これに先立つこと11日に佐々木秀義ささきひでよしの長男・定綱さだつなが頼朝のもとを訪れ、大庭景親おおばかげちかが頼朝の謀叛を疑っていることとともに、挙兵するか、奥州へ逃れるか、いよいよ決断を急がれた方が良いという秀義からの助言を伝えにやってきていました。
そして、頼朝から挙兵する旨を聞いた定綱は、それならば武具の用意をし、他の兄弟たちも引き連れて改めて参上することを述べて、再び父のいる渋谷庄しぶやのしょうへ戻ろうとしました。

頼朝は一旦定綱を引き留めたものの、結局これを許し、さらに渋谷庄の庄官である渋谷重国しぶやしげくにへも味方となるように促す親書を定綱へ持たせていました。

つまり、頼朝は重国と佐々木が結局大庭方へ加わることにしてしまい、そんな彼らに挙兵の密事を易々と漏らしてしまったと思って後悔したのです。 

ただでさえ兵力が少ないところに、佐々木の者たちを欠くとなると、頼朝軍の状況はさらに厳しいものとなります。
この山木攻めの一戦に頼朝自身や自分に味方した武士たちの命運すべてがかかっているだけに、ふと頼朝は時政に佐々木兄弟がいまだ参陣していないことを嘆きました。
すると、時政はそんな頼朝に、今夜はちょうど伊豆国の鎮守である三嶋大社みしまたいしゃの神事が行われる日であるから弓矢を取る事ははばかられていること、明日は吉日でもあることを理由として、山木攻めは翌日に日延べした上で、やはり佐々木の者たちを待った方が良いと勧めました。

こうして、16日夜から17日未明にかけて行うはずだった山木襲撃は翌日に延期されることとなりました。
そして翌17日。おとといから降り続いていた雨がようやく止み、この日は快晴の一日となりました。そんな日の昼下がり、時刻はひつじの刻(13時頃~15時頃)のこと。4人の武者が北条館に現れました。4人のうち2人は疲れた馬に乗り、2人は徒歩で。そして頼朝はそんな4人を見ると思わず悦びの涙を流しました。そう、この4人こそ頼朝が待ちに待っていた佐々木定綱・経高つねたか盛綱もりつな高綱たかつなの佐々木四兄弟だったのです。

頼朝は佐々木兄弟に今暁に予定されていた山木攻めが延期になってしまったことを伝えると、定綱は遅参を詫びた上で、大雨によって道中で一日思わぬ逗留をせざるを得なかった事情を話しました。

これを聞いた頼朝は、佐々木兄弟の道中の苦労を察したのか、佐々木兄弟の遅参をこれ以上責めることなく、むしろ彼らをいたわって休むように促しました。促された佐々木兄弟はそんな頼朝の言葉に甘えて侍所さむらいどころ(従者や警護する者の詰所)に下がって休むことにしました。
いつしか日は暮れてあたりはすでに暗くなっていました。

山木攻め

治承4年(1180年)8月17日戌の刻(19:00~21:00)。藤九郎盛長とうくろうもりなが安達あだち盛長)の召使いであった少年が北条館の釜殿かまどの(※1)で、一人の男を捕らえました。その男は山木兼隆に仕える雑色ぞうしき(※2)で、近ごろ北条館で働く下女を妻にしたため通ってきていた者でした。

この日の夜、北条館には山木館に討ち入るため続々と武士が集まっていました。そこで頼朝は、こうした状況がこの雑色の男から兼隆に伝えられぬようにと、あらかじめ捕らえることを命じておいたのです。

頼朝は集まった武士たちに、山木攻めを今夜決行して兼隆と雌雄を決することを命じ、この度の討ち入りの成否で、これからの自分の命運を占うと述べました。そして、山木に攻め入った際には、館に火をかけるように指示しました。これは頼朝が北条館からその煙を見、成功をいち早く知りたいためでした。

頼朝に味方し集まった武士たちは、ついに戦いが始まることに奮い立ちました。するとそのとき、北条時政が、今夜がちょうど三嶋大社の祭事が行われているために、山木へ向かう道中では三嶋へ参拝に出掛ける多くの人々の往来で進軍もままならないことを指摘。そこで少しでもその混雑が回避できるようにと、主要幹線道である牛鍬大路うしくわおおじは通らずに、あまり人が通らない蛭嶋ひるがしま通りを進軍するべきと発言しました。

これに対して頼朝は、時政の言う事はもっともとしながらも、これから大事を成すに当たって、人通りの少ない道を選ぶべきではなく、それに蛭嶋通りは騎馬が通行できないと、当初の計画通り牛鍬大路を進軍するように指示しました。

この時の北条時政の発言について、歴史学者の奥宮敬之氏は、時政が早くも頼朝軍の中で主導権を握っておき、頼朝に次ぐ第二の地位の確保を図ったものであると指摘しておられますが、この話が掲載されている『吾妻鏡』が鎌倉中期に北条氏の政治を正当化する姿勢で編纂されたことを考慮すれば、この話自体が、鎌倉政権の草創期における大事な初戦において、少しでも北条氏の存在をアピールしておきたいとする『吾妻鏡』編者たちの意図を織り込むための創作である可能性とも考えられます。

ともあれ、頼朝から山木攻めの号令がかかり、武士たちが次々に北条館を出発しました。北条時政をはじめとして息子の宗時むねとき義時よしときなど総勢30~40騎ほどの軍勢です。ただし、佐々木盛綱・加藤景廉かとうかげかど堀親家ほりちかいえの3名は北条館に残って頼朝の身辺警護につきました。

頼朝勢はまず牛鍬大路を北上。蕀木ばらき(現在の静岡県伊豆の国市原木)を経て肥田原ひたはら(現在の静岡県田方郡函南町肥田)までやってくると、時政は駒を止め、従軍していた佐々木定綱・経高・高綱の兄弟に堤信遠つつみのぶとおを討つように依頼します。信遠は山木兼隆の後見役であり、時政にとっては競合相手でした。

佐々木兄弟はこれを引き受け、別働で山木館の北方にある堤信遠の館へと向かうこととなりました。
時政の雑色であった源藤太の案内で堤館に着いた佐々木兄弟は、定綱・高綱が屋敷の搦手からめて(裏手)に回り、経高が屋敷の前庭を進んで一矢を放ちました。この矢が平家を制する最初の一箭となりました。

一方、堤の家の者たちも佐々木の襲撃に気づいて矢を放ちました。堤信遠は前庭にいる経高を迎え撃ち、互いに一歩も引けを取らない戦いを繰り広げました。一時は経高に矢が当たってしまい、にわかに窮地へ追い込まれたものの、すぐにそこへ裏手から回ってきた定綱と高綱が駆けつけ、経高に刺さった矢を抜くと、すかさず信遠に組み付きました。さしもの信遠も3人の相手をするのは難しく、ほどなくして兄弟によって討ち取られました。

信遠を討ち取った佐々木兄弟はすぐさま時政率いる本隊に合流するべく、5町(約550m)ばかり離れたところにある山木館へと急ぎました。そこではすでに時政たちが館へ攻撃をかけているはずでした。

ところが、佐々木兄弟が山木館へ駆けつけてみると、思いのほかの苦戦を強いられていました。時政たちは山木館の前の天満坂から矢石を発して攻め立てたものの、山木の者たちがこれに負けじと懸命に防戦したため、なかなか館内へ攻め入ることができずにいたのです。
山木の者たちの大半は三嶋大社の祭礼に出かけているため、警備はいつもより手薄で簡単に攻め入ることができると思われていたのですが、予想に反して、館に残った少数の留守の者たちが今を限りと奮戦したのです。

山木攻め関連地図(静岡県伊豆の国市〔旧・韮山町〕周辺)

他方、北条館で吉報を待つ頼朝はいつまで経っても山木館に火の手が上がらないことに焦りを感じていました。頼朝は北条館の厩番うまやばん(※3)であった江太新平治えたしんへいじを木に登らせて、山木館の方面を望ませていましたが、一向に変化はありません。

そこで頼朝は自身の身辺警護のため手元に残していた佐々木盛綱、加藤景廉、堀親家の3名を山木の援軍に向かわせることにしました。頼朝を守る武士は誰一人いなくなりますが、この討ち入りを失敗するわけにはいかず背に腹は変えられなかったのです。

佐々木盛綱、加藤景廉、堀親家の3人は今すぐにも出撃しようとしましたが、頼朝はなにか思いついたかのように彼らを呼び返しました。そして自ら長刀を景廉に与えると、これで兼隆の首を貫くようにと厳命しました。
3人は頼朝の並々ならぬ覚悟と決意をひしと感じると、一目散に駆け出し山木館へと向かいました。ただし、騎馬はすべて出払っていたために、徒歩での行軍です。彼らは一刻も早く山木館へ駆けつけられるようにと、山木への近道である蛭嶋通りをひたすら走っていきました。

やがて3人が山木館へ駆けつけてみると、やはり戦況は芳しくありませんでした。館までの道々には北条の郎等ろうとう家子いえのこをはじめとする味方の手勢が多く手傷を負って倒れ、騎馬も館から執拗に射かけられたからか衰弱し、ただ立ち尽くしているといった有様だったのです。

しかし、3名は怯むことなく館へ攻め入ると、頼朝の厳命通り、やがて兼隆を討ち取り、他の山木の者たちもことごとく討ち取りました。そして館に火をかけてすべてを焼き尽くしました。

山木へ出撃した武士たちが北条館に帰還したのは、もうすぐ夜が明けるころでした。武士たちが北条館の庭に居並ぶ中で、頼朝は縁側に出てそこから兼隆の首を実検しました。こうして山木攻めは辛くも成功したのです。

註)
 ※1・・・釜のある台所、調理場。
※2・・・身分のある主人(貴人)のそばに控え、雑事をこなす身分の低い者。
※3・・・主人の馬を世話する下人。

(参考)
上杉和彦 『源平の争乱』 戦争の日本史 6 吉川弘文館 2007 年
川合 康 『源平の内乱と公武政権』日本中世の歴史3 吉川弘文館 2009年
上横手雅敬・元木泰雄・勝山清次
『院政と平氏、鎌倉政権』日本の中世8 中央公論新社 2002年
石井 進 『日本の歴史 7 鎌倉幕府』 改版 中央公論新社 2004年

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