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【以仁王 vol.2】 鳥羽院の皇統を受け継ぐ王

八条院の猶子

以仁もちひと。後白河院の第三皇子(※1)で、母は藤原季成すえなりの娘・藤原成子ふじわらのせいし。この方は女官として後宮(※2)十二司の一つ、内侍司ないしのつかさ(※3)の典侍ないしのすけ(※4)を務めていましたが、後白河の寵愛を受け、この以仁王をはじめ6人の子(守覚しゅかく法親王、式子しきし内親王、亮子りょうし内親王〔殷富門院〕など)を産みました。

さて、以仁も最初は兄(守覚法親王)と同じように仏門に入り、大叔父(祖父〔鳥羽院〕の弟)である最雲法親王さいうんほっしんのうの弟子となって、いずれは僧侶になるはずでした。

ところが、応保おうほう2年(1162年)に師の最雲が死去。出家しないままに永万えいまん元年(1165年)に元服。以仁は親王宣下しんのうせんげ(親王にするという宣旨)を受けていない皇子のため、その称号は「王」となって、以仁王もちひとおうとなりました。

親王になれば、当然「王」の称号を持つ者より皇位継承できる立場も強いものになりましたが、以仁王にはそれがありません。ただ、以仁王はそれに匹敵するくらい皇位に即ける可能性を持っていました。

それは八条院(暲子内親王しょうしないしんのう)の猶子(後見人と被後見人の要素が強い親子関係)となっていた点にあります。

この八条院という方は、父を鳥羽院、母を美福門院びふくもんいん(藤原得子とくし)に持ち、両親から相続した多くの荘園を背景とした強大な経済力や人脈を持つ、この当時看過できない存在の女院でした。
また、八条院は同母弟の近衛このえ天皇が若くして崩御した際、父・鳥羽院から女帝として即位させようと考えられるほどで、八条院自身も二条天皇の准母じゅんぼ(天皇の母と同格の立場)となっていて、言ってしまえば鳥羽院の皇統こうとう(天皇の血筋)を受け継ぐ正統な人物でした。

そして、以仁王は元服して間もなく、この八条院の猶子ゆうしとなっていました。つまり、以仁王は八条院の子として、彼自身も鳥羽院の皇統を受け継げる立場になっていて、れっきとした皇位継承候補者の一人だったのです。

天皇になれなかった以仁王

しかし、以仁王はそれだけ皇位継承の資格を持つ人物だったのに、結局天皇にはなれませんでした。

なぜか。

それは以仁王に強力な対抗馬がいたからで、その対抗馬とは以仁王にとって異母弟にあたる後白河院の第七皇子・憲仁のりひとです。

そして、この憲仁を後援していたのが、保元・平治の乱で勝ち抜き、いよいよ政治的発言力を増していた平家一門です。

憲仁の母親は、平滋子たいらのしげこ建春門院けんしゅんもんいん)という方で、平清盛の義理の妹になります。もし、この憲仁が天皇になれば、天皇の親戚として平家の権勢はいよいよ高まり、朝廷の実権も握り易くなります。

また、以仁王の父・後白河院も憲仁に皇位を継承させたいと考えていました。

その理由としては、主に後白河院が憲仁を皇位に即けることで、自分がその上皇として院政を行い、政治の実権を握れるようにするためというものがあります。

当時は誕生して間もない六条天皇(赤ちゃん)が皇位についており、この時点でも後白河院は天皇家の家長として院政を行うことはできていたのですが、この六条天皇は後白河院と政治的に対立していた亡き二条天皇の皇子で、かつて二条天皇の親政を支持していた勢力の拠り所となる天皇でした。つまり、後白河院は二条天皇の影響を朝廷から排除して刷新したい思惑があったのです。

二条天皇は後白河院の皇子なのに、なぜ政治的に対立していたのか、そしてなぜ二条天皇の影響を排除したかったのか、この話がまたややこしいのですが、話は後白河院が天皇に即位する前、近衛天皇が即位した時に遡ります。

鳥羽院の皇統

鳥羽~安徳までの天皇家略系図
(以下の文章は親子関係が分かりにくくなるのでご参考にどうぞ)

後白河院の父・鳥羽院は、美福門院びふくもんいん(藤原得子とくし)との間にできた第九皇子・躰仁なりひとを天皇にするべく、自分の第一皇子であった崇徳天皇すとくてんのうに譲位を迫ります。

崇徳天皇としてはどうせ譲位するなら自分の息子である重仁しげひとを即位させたかったのですが、治天ちてんきみであった鳥羽院の意向には逆らえず、不本意ながら皇位を躰仁に譲ります。
これが第76代天皇・近衛天皇です。

この当時、皇位継承を決定できる権限を持つのは、治天の君でした。この治天の君というのは、天皇家の家長と言える存在で、実質上政治の実権を握り、次期天皇を誰に即かせるかはその一存で決まりました。

さて、その近衛天皇が久寿きゅうじゅ2年(1155年)17歳の若さで崩御。近衛天皇に皇子はおらず、次の天皇を誰にするか鳥羽院は悩むことになります。

候補者としては、美福門院が養育している2人の皇子、崇徳院の息子・重仁か、鳥羽院の第四皇子・雅仁まさひとの息子・守仁もりひとか、はたまた自分と美福門院との実子・暲子内親王しょうしないしんのうが候補です。

ただ、重仁を皇位に即けてしまうと、重仁の父である崇徳院が天皇の父院として力を盛り返しかねません。鳥羽院としては、それは何としても避けたいところでした。

結局、鳥羽院は守仁を皇位に即けようと考えますが、父親である雅仁が皇位に即かずにその息子が皇位に即くのは例がなく、それに守仁が未だ幼少であったため、守仁が皇位に即くに足りる年齢になるまでの中継ぎとして、守仁が皇位に即いたのちは上皇として院政を行わないという条件付きでやむなく雅仁を天皇に即位させました。これが第77代天皇・後白河天皇です。

後白河天皇が即位して3年後の保元3年(1158年)。
なかなか譲位を行わない後白河天皇に対し、守仁の養母である美福門院は、保元元年(1156年)に崩御した鳥羽院の意向を根拠に、15歳となった守仁への皇位継承を促します。そして、後白河天皇はやむなく皇位を守仁に譲ります。これが第78代天皇・二条天皇です。

しかし、後白河は上皇として院政を行わないという申し合わせを無視し、上皇として院政を行いたいと考えるようになります。そこで二条天皇と対立することになります。

一方、二条天皇は父に院政を行わせず、自分はあくまで祖父・鳥羽院の皇統を継承したとの立場で天皇親政を行おうとします。
これにより、後白河院政派二条親政派の2つの派閥が誕生することになりました。

二条天皇の崩御

しかし、ここで思わぬ事態が起こります。
永万えいまん元年(1165年)7月。こともあろうに二条天皇が崩御してしまうのです。

二条天皇は亡くなる1ヶ月前、生まれたばかりの皇子に親王宣下を行って順仁のぶひと親王とすると、すかさず譲位して天皇に即位させます(第79代天皇・六条天皇)。
このことは自分がこの世からいなくなったとしても、決して父・後白河に政治の実権は渡すまいという二条天皇執念の譲位だったとも言われています(※5)。

しかし、即位した六条天皇はまだ赤ちゃんです。政治は当然できません。結局、後白河院が政治を見ることになります。

後白河院はこの事態にすかさず自身の院政を確固たるものにするべく動きます。

六条天皇の後見という形で後白河院の院政は実現しているものの、もし六条天皇が成長すれば、また二条親政派が今度は六条親政に動き出すかもしれず、そうならないためにも早めに手を打っておく必要がありました。

そこで最愛の平滋子との子・憲仁を皇位に即かせれば、滋子も喜ぶし、自分は治天の君として院政を確固たるものにできるしで、後白河院は憲仁を後援する平家と手を組み、憲仁の立太子(公式に皇太子を立てること)に向けて画策します。

こうして、後白河院は六条天皇のあとに天皇に即けるべき人物を鳥羽院の皇統に連なる以仁王ではなく、憲仁としたのです。

高倉天皇の即位

さて、その後。
二条天皇が亡くなってわずか5ヶ月後の永万元年(1165年)12月、憲仁に親王宣下がなされ、続く仁安元年(1166年)10月には立太子されます。

そしてついに、仁安3年(1168年)2月。六条天皇(3歳※)が憲仁親王(6歳※)に譲位、翌3月に即位します。これが第80代天皇・高倉天皇です。
(※年齢は現代の年齢の数え方にしてあります)

これによって、後白河院は念願の二条天皇の影響を排除した院政を行い、憲仁を後援した平家もいよいよ権勢を振るい始めました。

一方、以仁王は皇位継承の可能性が大幅に減退、三条高倉の御所でひっそりと過ごす日々を送っていくことになります。

注)
※1・・・『平家物語』では以仁王を後白河院の第二皇子としていますが、これは以仁の同母兄にあたる守覚法親王しゅかくほっしんのうが早くから仏門に入っていたため、皇子として数えていないためです。
※2・・・天皇の妻妾などが住む宮中奥向きの殿舎
※3・・・天皇に近侍してその日常生活をサポートしたり、奏請(天皇への要請)や伝宣(天皇の意向〔勅旨〕を伝える)を行ったり、後宮の礼式などをつかさどる役所。
※4・・・内侍司の次官。内侍司のトップは尚侍ないしのかみですが、典侍が実務上のトップでした。
※5・・・上横手雅敬・元木泰雄・勝山清次『院政と平氏、鎌倉政権』日本の中世8 中央公論新社 2002年 p.97

(参考)
上杉和彦 『源平の争乱』 戦争の日本史 6 吉川弘文館 2007 年
川合 康 『源平の内乱と公武政権』日本中世の歴史3 吉川弘文館 2009年
上横手雅敬・元木泰雄・勝山清次
『院政と平氏、鎌倉政権』日本の中世8 中央公論新社 2002年
生駒孝臣 「源頼政と以仁王ー摂津源氏一門の宿命ー」
(野口実編『治承~文治の内乱と鎌倉幕府の成立』中世の人物○京・鎌倉の時代編 第二巻 所収)清文堂 2014年
安田元久 編 『鎌倉・室町人名事典』 新人物往来社 1990年

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