【治承~文治の内乱 vol.7】 宇治平等院の戦い
比叡山延暦寺勢力の味方からの離脱は、以仁王派にとっては痛恨の極みで、このままでは平家(六波羅)と比叡山の挟撃にあう可能性すらある危険な状況となりました。
そこで、以仁王らは最後の頼みの綱、興福寺・東大寺の衆徒を主力とする南都の大衆と合流して巻き返しを図ろうと、5月25日夜陰に紛れて園城寺を出発、一路南都を目指しました。
しかし、以仁王らの園城寺退去はたちどころに平家の知るところとなりました。明くる5月26日寅の刻(午前4時ごろ)、以仁王らの動きを掴んだ平家は直ちに郎等である藤原忠清、藤原景家、藤原忠綱、藤原景高らの300余騎を遣わして以仁王らを追わせたのです。
平家軍は以仁王らが宇治平等院にて休息を取っていたところで追いつきました。しかし、以仁王軍も事前に平家の追っ手が迫っている情報を掴んでおり、宇治川にかかる橋の橋板を外して容易に渡河できないようにした上、各所に掻楯や逆茂木などのバリケードを設置して平家軍に備えていました。そして、平家軍接近の報に接すると園城寺の衆徒や頼政・仲綱と一族郎党、渡辺党の武士たちは平家軍の来襲を川向こうに待ち構えました。かくして、両軍は宇治川を挟んで対峙。宇治平等院の戦いが始まりました。
この時の戦いの様子について、当時の貴族の日記である『玉葉』(九条兼実)や『山槐記』(中山忠親)には、参陣した平重衡と平維盛から聞いた話が記載されています。
それらによれば、藤原景家が橋板のはずれた橋を渡って攻める一方で、忠清は17騎ほどで騎乗したまま川へうち入り、鬨の声をあげ士気を高めると、橋よりやや上流にある浅瀬を通って、または川の深みにおいては馬筏にて渡河を決行し、川向こうにいる以仁王軍に攻めかかりました。
渡河を許した以仁王軍も決死の覚悟で応戦。宇治平等院前にて激しい合戦となりました。特に源兼綱は八幡太郎(源義家)の再来と思わせる奮戦をし、兼綱の放つ矢から逃れられる者はいなかったといいます(※1)。
しかし、もとより数に劣る以仁王軍は次第に押され、南都方面に後退しながら戦い続けるものの、頼政・兼綱らは木津川のほとり、綺河原(京都府木津川市山城町綺田付近)にて討ち取られ、仲綱は生死不詳。その他の者たちも様々に討死、または逃走してついに以仁王軍は壊滅しました。
その後、後詰めとして平重衡・平維盛らが率いる平家軍本隊が到着。以仁王が南都へ逃走したとの情報もあって、さらに南都へ向けてそのまま進軍しようとしましたが、藤原忠清が南都へ到着するのは夜になり、興福寺衆徒の動きもわからないままに動くのは危険であるとして、これ以上の進軍は慎重になるべきであると進言。忠清の進言を受ける入れるかたちで、これまでの戦で取った首を一坂(木津川市市坂付近)にて確認したのち平家軍は都へ引き上げたといいます(※1に同じ)。
なお、宇治平等院の戦いで討ち取られた者として、源頼政、源兼綱、源仲家、源勧(渡辺勧)、源唱(渡辺唱)、源副(渡辺副)、源加(渡辺加)など16人の名前が『山槐記』(※2)に記されていますが、この時、肝心の以仁王の首はそれと思われる首があるものの、はっきりと確認できなかった上、仲綱の首もありませんでした。そして、このことを根拠として以仁王・源仲綱の生存説が流布するなどしてしばらく社会に影響を与えていくこととなります。
ということで、以上が貴族の日記をもとに書いた宇治平等院の戦いの様子となりますが、『平家物語』のこの戦いの描写(『平家物語』では「橋合戦」とも呼ばれます)は以仁王側の人物の活躍ぶりが多く描かれています。
せっかくですので、次回から数回に分けて『平家物語』(延慶本)の描く宇治平等院の戦いをお話ししようと思います。
最後までお読みいただきありがとうございました。