【治承~文治の内乱 vol.23】 衣笠城攻防戦
衣笠城攻防戦
三浦勢は三浦に無事帰還しましたが、これで安泰とはいきませんでした。
先日の由比ガ浜の戦いで敗れた畠山重忠が一族である河越重頼や江戸重長などの秩父党や武蔵国の中小武士団の軍勢を糾合して、再び三浦へ攻め込んできたのです。
これに対し、三浦も上総国の上総広常の弟にあたる金田頼次70余騎ほどの援軍を得てはいましたが、畠山が集めた軍勢に比べれば無勢であり、かなり危機的な状況に陥りました。
かくして8月26日辰の刻(7:00~9:00)、衣笠城下に畠山の軍勢が押し寄せました。三浦は本拠である衣笠城に立て籠って、大手である東木戸口を三浦義澄と佐原義連が、西木戸を和田義盛と金田頼次が、中陣として長江義景、大多和義久などが布陣して守りを固め、敵の攻撃を防ぎました。しかし、相手の多勢と連日の戦による疲労で三浦勢はいよいよ敗色濃厚となり、深夜に城を脱出。そして海路安房国へと向かいました。しかし、三浦党の総帥である義明だけは、
「われは源家累代の家人として、幸せにもその貴種(頼朝)が旗挙げする時を目にすることができた。どうしてそれを喜ばずにいられようか。わが歳も八旬あまり、ここを生きていかほどであろうか。ならば今この老いた命を武衛(頼朝)に捧げ、わが子孫の勲功としていただこうではないか。お前たちは急いでここを退去し、彼(頼朝)の存亡を尋ねるのだ。われは一人でこの城に残って多勢がいるように見せかけようではないか」
と、皆が共に逃げる様説得するも聞かずに城に残り、翌朝27日辰の刻、河越重頼、江戸重長らの軍勢に討ち取られました。『吾妻鏡』によれば歳は89歳であったといいます(※1)。
『平家物語』にみる衣笠城攻防戦
この衣笠城での戦いも『平家物語』に描かれています。
今回も「延慶本」「長門本」の両平家物語を参考にしてお話ししたいと思います。
「畠山の軍勢は今にも襲ってこよう。ここは皆で衣笠城に籠城するべきである」
すると、和田義盛が口を開きます。
「衣笠城は攻め口がたくさんあって、無勢では守り切れないだろう。奴田城ならば廻りは岩山、一方は海であるから腕の立つ者百人ばかり籠もらせておけば、一二万騎寄せてきても楽に防げるだろう」
と、衣笠城の支城である奴田城での抗戦を提案しますが、これに義明は、
「小賢しい若者の言うことかな。今は日本国を敵に回して討死しようと思っているというのに。どうせ討死するなら、名の知れた城で死にたい。『先祖代々の館にて討ち死にした』と平家にも聞こえたいのでな」
と、義盛の提案を退け、他の三浦党の者たちも義明に同意したことから、衣笠城で畠山勢を迎え撃つこととなりました。ただ、上総国から上総広常の弟で、義明の娘婿であった金田頼次が70余騎の軍勢を率いて、ともに城へ籠もったために、三浦の軍勢の数は400余騎となり、本拠の衣笠城といえども、城内は手狭になりました。
戦に先立って三浦義明は、
「若い者をはじめとして、厩の世話をする者にいたるまで、強弓を引ける者は矢衾(矢を隙間なく一面に放つこと)を作って散々に敵を射るべし。また、打物(刀剣など近接戦闘用の武器)が得意な者は、てんでに長刀を持って、敵を深田に追い詰めて討ち取るのだ。義澄、そなたは城の西浦口を防ぐのだ」
と、全軍に下知したのでした。
かくして、26日辰の刻(7:00~9:00)。武蔵国の住人である江戸重長、河越重頼、金子家忠に代表される村山党、児玉党、野与党などの中小の武士団の軍勢を糾合した2000余騎の大軍勢が衣笠城に攻めかかってきました。
畠山勢の連 五郎は、父と兄を由比ガ浜にて討ち取られていることもあって、真っ先に城へと攻めかかってきました。しかし、かねてよりの義明の命令通り、城からは雨のような矢が降り注ぎ、一方は岩山、もう一方は深田となっている地形のために攻めあぐね、さらに打物が得意な者たちが城から少し出て迎え撃ったために、連の軍勢は苦戦。じりじりと後退を余儀なくされました。
すると、今度は連の軍勢と入れ替わるように、金子の軍勢が城へ攻めかかっりました。金子家忠や金子与一(親範)が果敢に城門めがけて駆けました。例によって城からは雨のような矢が金子の軍勢にも降り注ぎますが、家忠は少しも怯まず前進し、鎧に矢が刺さる度にそれを折り、鎧兜には21本もの矢が刺さっていましたが、そのまま戦い続けました。
この家忠の様子に、城内の三浦の者たちも感じ入り、酒肴を家忠の許へ送って、
「そなたの戦いぶり、誠に面白く見える。この酒を召されてさらに力をつけ、存分に戦なされよ」
と、労をねぎらう体で、家忠を挑発しました。すると、
「では、そのように承りましょう。この酒をよーく飲んで、すぐにでもあなたたちを城から追い落としてご覧にいれましょう」
と、家忠は兜の上に萌黄の糸威の腹巻をかぶって、少しも怯むことなく、城へ攻めかかってきたのです。
義明はそんな家忠の様子に、
「ああ、言うも無駄なことであったか。ならば20、30騎ほどの騎馬武者が一斉に城から駆け出で、このあたりに不案内な武蔵国の者どもを深田へと追い詰めてしまえ!」
と味方に呼びかけますが、味方は、
「こればかりの軍勢で打って出ても中々うまくいかないだろう」
と、打って出ようとしません。そこで義明は居ても立ってもいられず、高齢でありながら、ちょうどこの時病も患っていましたが、着ていた白い直垂に、かぶっていた萎え烏帽子を押し入れて、馬に乗り、雑色2人を馬の左右につけて膝を押さえさせ、太刀だけを佩いて敵の中へ打って出ようとしました。
これを見た従兄弟の佐野平太は馳せて来て、
「介殿(義明)は何かに憑り付かれたのではないか!?あなたが打って出たところで何ほどのことがあろうか!」
と義明を引き止めますが、義明は、
「おのれらこそ物に憑りつかれたのではないか!?戦というのは或る時は駆け出でて敵を追い散らし、或る時は敵に追われて引き退くからこそ目覚ましく面白いのだ。いつということもなく、草鹿的(訓練用の鹿を模った的)を射るような戦を習ったことは一度もない」
と言いながら、佐野平太を鞭で打ちつけたのです。
そうこうしているうちに日も暮れました。三浦の者たちは朝から戦をし続けて疲労の色が濃くなってきました。さすがの義明もこの頃になると意気消沈して、どことなく力なさげの様子を見せていました。
そんな義明は三浦党の武士たちを前に、
「今は城中の様子、ことのほか心弱げに見える(もはやこれ以上戦うのは苦しいであろう)。だからと言って各々むやみに自害してはならない。兵衛佐殿(頼朝)はそう簡単に討たれるなんてことはないお方であるぞ。佐殿(頼朝)の生死を聞き定めるまでは、この拙い命を生きて、事の最後までしっかり見届けるべきである。おそらく、佐殿はどうにかして安房・上総の方へ落ち延びておられるかもしれない。そこでお前たちは今夜ここを引き払って、船に乗り、佐殿の行方を探し求めるのだ。この義明は今年すでに79歳になろうとしておる。そのうえ病を患っている身だ。『三浦義明は幾ばくも無い命を惜しんで、城を抜け出し落ち延びたぞ』と、後日人々に言われることも口惜しいゆえ、この私は城に捨てて落ち延びよ。決して歎き悲しんではならない。急いで佐殿と合流して、本意を遂げるのだ」
と、三浦の者たちに城を退去を促しましたが、三浦の者たちはさすがに総帥でもある義明を捨て置くわけにもいかず、輿に乗りたがらず大いに怒る義明をどうにかこうにか輿に乗せて城から脱出しました。
城から脱出した三浦の主だった者たちは、栗浜(久里浜)の御崎(三崎?)に停泊させてあった船に分け乗り、安房の方を目指して船出していきました。
一方、義明の乗った輿は雑色たちが担いでいました。ところが、雑色たちは敵の追手が目前にせまってきたため、あまりの恐ろしさに義明を置いたまま逃げ出してしまい、義明の傍らには女が一人付き添うばかりとなってしまいました。そこへ敵の追手が義明たちに襲い掛かってきたのです。
「われは三浦大介という者ぞ、なにをする!」
と、義明は叫びますが、聞く耳を持たない敵は、義明の着ていた直垂をはぎ取っていってしまいました。
やがて夜が明けると、義明はひとりごとに、
「ああ、だから我は言ったのだ。城中にてこそ死のうと思っていたのに、若い者たちの言うことに従ったばかりに、犬死同然の死に方をすることが悔しくてならない…。そうであるならば、せめて畠山の手にかかって死にたいものだ」
とつぶやくが、そこに現れたのは畠山の軍勢ではなく、江戸重長の軍勢でした。そして、義明は重長に首をはねられたのです。
「もとから大介(義明)が言っていたように、城中に捨て置いていけば、これほどの恥をかくこともなかったろうに・・・」
と、これを聞いた人々は、口々に言い合ったとのことです。
『平家物語』では何とも残念な最期を迎えてしまった三浦義明ですが、『吾妻鏡』では少し違った義明の最期が記されていて、義明の言った通り、衣笠城に残り、やがて城へなだれ込んだ畠山の軍勢に討ち取られたとなっています。
今となってはもちろん真相はわかりませんが、もしかすると『平家物語』に書かれていたのが真相で、『吾妻鏡』では義明の最期をせめて願った通りの死に方をしたと書き記しておこうとした後世の人々の気持ちの表れだったのかもしれません。
注)
※1・・・高橋秀樹氏は、子息の年齢を勘案すると、79歳の方が整合的であるとされています。
(参考) 松尾葦江編 『校訂 延慶本平家物語(五)』 汲古書院 2004年
麻原美子・小井土守敏・佐藤智広編 『長門本平家物語 三』 勉誠出版 2005年
上杉和彦 『源平の争乱』 戦争の日本史 6 吉川弘文館 2007 年
川合 康 『源平の内乱と公武政権』日本中世の歴史3 吉川弘文館 2009年
上横手雅敬・元木泰雄・勝山清次
『院政と平氏、鎌倉政権』日本の中世8 中央公論新社 2002年
石井 進 『日本の歴史 7 鎌倉幕府』 改版 中央公論新社 2004年
高橋秀樹 『三浦一族の中世』 歴史文化ライブラリー400 吉川弘文館 2015年
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