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【伊豆国・山中城 vol.3】小田原北条氏築城術の集大成

今回は山中城西の丸エリアを紹介します(前回〔三の丸〕はこちらから)。
西の丸エリアは鳥瞰図でみると、赤丸で囲ったエリアになります。

拡大します。


西の丸

西の丸(西の丸見張台から)
西の丸(西の丸見張台から)
西の丸(西の丸虎口から)
西の丸(西の丸虎口から)

西の丸は岱崎だいさき出丸と同じく豊臣軍の襲来に備えて増築された曲輪くるわと見られ、山中城の曲輪の中では新しい曲輪です。
そのため、西の丸周辺にある遺構には長年にわたって培われてきた小田原北条氏流の築城術が見られ、大変貴重なものとなっています。

西の丸は広さが 3400㎡と大変広い上、全方向に空堀(畝堀)が廻らされて高い防御力を持っており、言うまでもなく山中城西方防御の要でした。

また、西の丸は曲輪全体が東側へ傾斜しています。 2枚目の写真「西の丸(西の丸虎口から)」でも画面左側(西)から右側(東)へ 傾いているのがわかります。これは雨水を西の丸東にある溜池ためいけへ流すために故意に傾かせたためで、西の丸に降った雨は西の丸東にあった連絡用通路を排水路として溜池に注がれていたと解説板にあります。

西の丸東側にある連絡用通路
西の丸東側にある連絡用通路

雨水がこの下った先にある溜池へと流れていました。現在は整備されて排水溝や階段が設置されていますが、当時はもちろんそのようなものはなく、通路全体が排水路として機能していたものと思われます。

西の丸見張台

西の丸見張台遠景
西の丸見張台遠景
西の丸見張台
西の丸見張台

西の丸見張台は西の丸の西端に位置して、西の丸周囲の堀を掘った際に出た土砂を積み上げて作られています。見張台の標高は 580m と山中城の中でも高さのある場所となっており、当時は隣接する西櫓はもちろん、元西櫓や二の丸、三の丸など山中城の諸曲輪が見渡せたと思われ、今でも元西櫓や二の丸、本丸の矢立ての杉などを望むことができます。

なお、西の丸見張台を構築する際、基底部と肩部を補強するために、ロームブロック(※)と黒色土を交互に積み上げていたことが発掘調査で明らかとなっており、ここでも北条氏流築城術の技術と知恵が発揮されています。

※ロームブロック・・・山中城周辺の土壌である関東ロームが石のように固まったもの。関東ロームは富士山・箱根山・愛鷹山・浅間山などの 火山灰などが堆積してできた粘土質の土で、赤褐色をしています。

西の丸堀(西の丸畝堀)

西の丸畝堀1(西の丸南側)
西の丸畝堀1(西の丸南側)
西の丸畝堀2(西の丸北東側)
西の丸畝堀2(西の丸北東側)
西の丸畝堀3(西の丸北西角)
西の丸畝堀3(西の丸北西角)
西の丸畝堀4(西の丸北側から西側にかけて)
西の丸畝堀4(西の丸北側から西側にかけて)
西の丸畝堀5(西の丸西側から北側にかけて)
西の丸畝堀5(西の丸西側から北側にかけて)
西の丸畝堀6(西の丸西側)
西の丸畝堀6(西の丸西側)

小田原北条氏流築城術で特徴的な遺構がこの畝堀です。
通常の空堀の中に何条かの畝を設けている独特な空堀ですが、 この畝の高さは堀底から2m、さらに西の丸までの高さが9mもあり、さらに当時は堀も曲輪斜面も滑りやすい赤土(関東ローム)が丸出しだったので、堀に落ちると脱出、まして曲輪内に登っていくことはまずできなかったでしょう。

西の丸堀の中で、西の丸西側から北側にかけては畝堀が特殊な形をしています。堀の中央に一本の長い畝を通し、そこから左右交互に畝を出すといった形状です。この形状が障子に似ている所から畝堀の発展型として障子堀しょうじぼりと呼ばれています。

この障子堀も小田原北条氏流築城術の一つになりますが、小田原北条氏を降した豊臣秀吉はのちに自らの居城である大坂城の堀の一部にこの障子堀を取り入れたことが知られています。

西櫓

西櫓全景(西の丸見張台から)
西櫓全景(西の丸見張台から)
西の丸・西櫓鳥瞰図
西の丸・西櫓鳥瞰図

西櫓にしやぐらは西の丸の西に位置する曲輪で、上図の鳥瞰図にあるように西の丸の馬出うまだし(※)として機能していたようです。
そのためか西櫓には西・北・南の三方には土塁が廻らせてありますが、西の丸側になる東方には土塁がありません。

ちなみに、この馬出の形状は角馬出かどうまだしといい、北条氏の築いた城で多用された馬出の形状です。馬出の形状としては他に丸馬出まるうまだし(馬出が半円状)というのもありますが、それは甲斐武田氏流の馬出の形です。

※馬出・・・曲輪の虎口こぐち(出入り口)の外側にもう一つ曲輪を設けて、外から直接内部が見えないようにして防禦度を高めた施設。

西櫓内部の様子
西櫓内部の様子
西櫓内にあった建物跡
西櫓内にあった建物跡

西櫓内はさほど広くありませんが、上の写真にあるように、西櫓南西の区画に建物の痕跡が検出されました。この建物は茅葺かやぶきの掘立柱ほったてばしら建物と推定されて、一時的に弓矢や鉄砲を立て掛けておくための施設があったと考えられています。

なお、西の丸にも建物があったと思われますが、後世の開墾などによって改変されてしまったのか、痕跡は確認できなかったそうです。

西櫓堀

西櫓畝堀
西櫓畝堀
西櫓堀にあった架橋台の痕跡
西櫓堀にあった架橋台の痕跡

西櫓の堀もやはり畝堀になっています。
山中城の畝堀の畝はあらかじめ規格を決めていたのか、西の丸堀の畝と同様、堀底からの高さが約2m(一間≒1.8mかと思われます)、堀底から西櫓までは9mあります。また、畝の上部の幅は約60㎝。人ひとりがやっと歩ける幅ですが、丸みを帯びていて、かつ土(ローム層)が丸出しの状態であったため、畝の上を歩行することは困難だったと思われます。

なお、西櫓堀にはほぼ9m間隔で8本の畝があり、10の区画に分けられていますが、その区画の寸法は堀底幅が平均して2.4m、長さが中央部分で9.4m、畝の傾斜は 50~60 度と急峻です。そのためこの畝堀の中に落ちると、這い上がることはもはや不可能であり、城から弓や鉄砲で狙い撃ちされれば、ひとたまりもなかったであろうことは想像に難くありません。

このように西櫓は高度な畝堀によって囲われていましたが、曲輪へ入るには西の丸から入る以外の方法としては、西櫓南東にあった土橋か、北西にあった架橋を渡って入ることができました。
これらは西櫓から出撃する時に用いる通路であったと考えられています。

下の図は西櫓堀に架かっていた橋の復元図です。解説板にあった日本大学宮脇研究室が示した復元図を基に作成しました。これを見るととても簡素な橋であったことがわかります。戦時の状況によってはすぐに壊せるようにしたのかもしれません。

架橋復元図
西櫓堀架橋復元図

ということで今回はここまでです。
次回は山中城の「二の丸(北条丸)エリア」です。
最後までお読みいただきありがとうございました。

⇒次記事


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