【鎌倉党 vol.1】 鎌倉党のルーツ
今回は平安末期に相模国で勢力を拡げた武士団、鎌倉党の紹介です。
鎌倉党は主に相模国中部に勢力を拡げ、大庭氏・梶原氏・長尾氏・俣野氏・豊田氏・懐島氏・香川氏・柳下(八木下)氏といった諸氏で構成された武士団です。この武士団で著名な人物としては、後三年の役の際のエピソードで知られる鎌倉景政(権五郎)、石橋山で頼朝に敵対した大庭景親、その兄である懐島(大庭)景義、頼朝の側近にして侍所の所司《しょし》などを務めた梶原景時がおります。
ではでは、今回は第1弾ということで鎌倉党のルーツ、鎌倉党諸氏の出自の話をしてみたいのですが、それは系図の異同などから不明な点が多く、はっきりしたことはわかっていません。
とは言え、それで話が終わっては何にもならないので、今現在どのような状況なのか、もちろんすべてではありませんがお話ししたいと思います。
鎌倉党の始祖
まず、鎌倉党諸氏の諸系図を見てみると、その多くで平良文の子孫ということになっています。
しかし、坂東に割拠する他の武士団、例えば三浦氏や秩父氏(畠山氏・河越氏など)、千葉氏や上総氏、中村氏(土肥氏・土屋氏など)なども良文の子孫とされている上に、景政は良文の直系の子孫ではないとする系図(『尊卑分脉』など)もあるため、これについてはなお検討の余地ありで、そのまま良文の子孫と断言することができない状況となっています。
こちらは『続群書類従』にある「三浦系図」をベースに、鎌倉党諸氏の系図も参考にして作成した系図を載せてあります。
鎌倉党諸氏の系図によれば、平良文から平忠通(忠道)へと繋いでいることはおおむね共通しているのですが、その後の系図は様々です。
この最初に登場する平良文という人物は高望王の五男とされ、村岡五郎と称して、坂東の地を中心に活動した武士です。
『今昔物語集』巻二十五の第三には「源充と平良文と合戦する語」として嵯峨源氏の源充(宛とも)と武技を競った話が収録されており、諸系図には鎮守府将軍(陸奥の軍政府の長官)という肩書きもあって、奥州、坂東はもとより都でも名の知られた兵だったようです。
しかし、この良文はいまだ不明な点が多く、そもそも彼が坂東での拠点にしたとされる「村岡郷」の所在も諸説あって定かではありません。
村岡郷は現在、神奈川県藤沢市村岡地区・埼玉県熊谷市村岡・茨城県下妻市村岡の3ヶ所が主に比定されています。
下妻市の村岡には「由来記」と称する石碑があり、その碑文の一節には、
とあって、良文が3度居住地を移したことが記されているそうです。
また、東国生まれの平家物語と形容される『源平闘諍録』の巻一「桓武天皇より平家の一胤の事」の中にこのような記述があります。
とあって、良文が将門の傘下から離れて、鎌倉の村岡(藤沢市村岡東付近?)に住んだとしています。
このように良文の居住地は諸説ありますが、彼が相模国、武蔵国、下総国に居住したという伝承が残っていること自体、彼がこれらの国々で活動、もしくは影響力を及ぼしていたことを反映するものなのかもしれません。
そうなると、良文が先に話したような坂東を代表するいくつかの武士団の祖となった可能性もあながち否定できず、実際はどのようであったのか判断に苦しむところです。
異なる鎌倉氏族の系譜
続いては良文の子・忠通(忠道とも)です。
この方もよくわかっていない方ですが、父・良文と同様に村岡に本拠を置いて村岡五郎(系図によっては村岡小五郎、村岡二郎大夫など様々)を名乗る一方で、鎮守府将軍、東国の国々の国司(駿河守や相模大掾)にも任じられていたようですので、彼もまた都でも名の知られた兵だったようです。
『続群書類従』の「平群系図」に、
とあって、相模国で一定の権力を持つと同時に、摂津源氏の祖である源頼光に随身して四天王の一人として名を馳せていたようです。また、『今昔物語集』巻二十五の第十には「頼信の言に依りて平貞道人の頭を切る語」という話があり、頼光の弟で、河内源氏の祖である源頼信とも親交があったことがうかがわれ、この忠通の代から河内源氏との関わり合いが始まったようです。
ここで「忠通」に関してもう一つ系図を載せます。
この系図は『尊卑分脉』によるものです。『尊卑分脉』は洞院公定(1340年~1399年)という南北朝時代から室町時代初期にかけて活躍した公卿が諸氏の系図を集成、編集したものですが、後世の書き足しや改訂、伝写の誤りなどがあり、そのまま掲載してある系図を鵜呑みにはできず取扱い注意となっております。しかし、中世の人物の系図を調べるのにまず目が通される史料です。
さて、この系図では先ほど載せた『続群書類従』参考の系図とは違ったものを掲載しています。
これによれば、鎌倉党諸氏の先祖は良文、忠通とはならず、平良正から平致成、そして鎌倉党諸氏が『平家物語』などで共通の祖として挙げる鎌倉景政の父である景成へと続いています。つまり、鎌倉党諸氏が良文の直系の子孫となっていないのです
(ついでに『続群書類従』の諸氏系図では鎌倉党諸氏は鎌倉景政の子孫になっていないというややこしさ)。
また、この致成という人物は『尊卑分脉』中に重複していると思われ、高望王の子・平良兼の孫にも致成が見えます。系図中に斜線で囲った部分がありますが、これらは致成の他に重複していると思われる人物たちです。親子・兄弟関係、官職、位階は微妙に違っていますが、良兼の子孫と良正の子孫で同じ名前(諱)が見られるのです。
この致成について、『雙(双)林寺伝記』(※1)(『続々群書類従 第四 史伝部三』所収)にはこのような記述があります。
ちょっと長かったですが、要するに、
高望王の末孫に致経という者がおり、致経に男子がいなかったため伯父の致成からその二男を養子にもらった。それが景正。景正はのちに忠通と改名、忠通は源頼義が奥州の安倍氏を征討した前九年の役(1051年~1062年)で活躍。忠通には五人の男子がいて、それが長男・為通(三浦氏の祖)、次男・景成(大庭氏の祖)、三男・景村、四男・景通(梶原氏の祖)、五男が景政(鎌倉氏の祖、のちに長尾氏に改める)。忠通は承暦1年(1077年)に相模国村岡から長尾郷に移り、永保二年(1082年)に忠通が奥州の陣中(後三年の役)で没すると、三男の景村がその跡を継いだ。
となるわけですが、この記述に基づくと多少の違いこそあれ、『続群書類従』にある諸系図と『尊卑分脉』にある系図とが合わさったような形になります。
しかし、景正と景政の二人がいて、似たような本名(諱)を親子で名乗った上、仮名(呼び名・通称)は同じ権五郎。しかも景政は苗字を長尾と改めており、当時の慣習で本拠の地名を名字としていたことから相模国の長尾郷を本拠にしたと思われますが、父親の忠通(景正)も長尾郷に移ったとあるので、五男・景政が忠通(景正)のあとを継いだのかと思いきや、跡を継いだのは景成(景成は『尊卑分脉』では鎌倉氏の祖で大庭氏・梶原氏に繋がり、「三浦系図」では長江氏に繋がります)で、景成が長尾郷に忠通(景正)を祀った御霊宮を建立したとなっているので、どのような家督継承になっているのかがわかりません。
さらに、後三年の役は忠通(景正)が没した翌年(永保3年、1083年)から始まったとされていますので、忠通(景正)が後三年の役の陣中で没するというのが、わずか1年の違いではありますが不可解です。
もっともこの『双林寺伝記』も後世(戦国時代)に書かれたものですので、その記述をそのまま信用することができないのは言うまでもありませんが、これまでお話ししてきたことから考えられることは、景正と景政の2人が実在していたのを混同してしまったか、それとも鎌倉党はもともと相模国の古代豪族であったのを権威付けのために桓武天皇の末裔で都の兵として名高い平氏と血筋で結び付けて仮冒したために無理が生じ、特に年代的に矛盾をきたしてしまった部分があるのではないか、はたまた長尾氏が名高き景政の直系であるということをアピールしたいがために無理やり景政と長尾氏を結び付けた話か?ということなんですが、いずれにしても確証はありません。
鎌倉権五郎景政
さて、今度は鎌倉党諸氏が『平家物語』などで共通で祖先として名前を挙げる鎌倉景政(権五郎)です。景政については先ほども話が出てきましたが、彼もまたよくわからない人物です。
大庭景義や景親の名乗りでは、
また、梶原景時も、
とありますので、先ほどの『双林寺伝記』の記述に照らして、年代(後三年の役の時に16歳)を考慮に入れると、大庭景親や梶原景時らは景正の五男・景政の子孫ということになろうかと思いますが、五男・景政は長尾氏の祖で、大庭氏や梶原氏の祖は別だったはずです。となると、ここでいう“鎌倉権五郎景政”というのは、忠通(景正)であると考えれば辻褄が合いそうですが、そうなると忠通(景正)は後三年の役の時に没したとされているので年代が合いません。
では、そのあたりを鎌倉党諸氏の系図でどうなっているか見てみると、この鎌倉景政から大庭景親や梶原景時などに至るまでの系譜もまちまちで一貫していないのです。つまり、鎌倉景政が鎌倉党の諸氏にどう繋がるのか、系図上ではまったくもって不明と言わざるを得ない状況なのです。
ただし、鎌倉景政が「鎌倉」を苗字にしていることから景政は相模国鎌倉郡を本拠地にしていたと思われ、その鎌倉郡はのちに鎌倉党の勢力圏内であったことを考えると、やはり景政が鎌倉党に繋がる人物であったことは十分考えられます。さらに鎌倉党の根本的な荘園ともいうべき大庭御厨は鎌倉景政によって開発されたことも史料(『天養記』)によって確認できていることから、鎌倉党とは全くの無関係だった可能性は低いと見ていいと思います。
ということで、以上が鎌倉党諸氏のルーツをめぐる状況になります。
何分わからないことだらけで何とも的を得ない、非常にややこしい話だったかもしれませんが、最後までお読みいただきありがとうございました。
次回は鎌倉党の根本的な庄園・大庭御厨を中心にした話をしたいと思います。
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