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【治承~文治の内乱 vol.27】 上総広常の参陣
広常の勢力の大きさ
治承4年(1180年)9月19日。この日、上総国の上総広常(平広常とも言います)が、自分の一族や上総国の諸豪族を率いて、ついに下総国府の頼朝のもとに参陣してきました。その軍勢およそ20000騎という大軍勢です。
ちなみに、この20000騎という数は『吾妻鏡』の記す軍勢数で、『平家物語』(長門本・延慶本)などでは10000騎となっています。いずれの数にしても普通に考えて誇張されたものであると思われ、実際はどのくらいの数の軍勢が加わったのか定かではありません。しかし、この上総広常の参入によって、坂東での情勢に変化が生じて、次々に頼朝の軍勢へ参加する者が増えていくことを考えると、20000騎や10000騎はないにしても、やはりそれなりの軍勢が加わったと思われます。
そこで、この上総広常の勢力がどれほどのものであったか見てみましょう。まず、公卿・藤原(九条)兼実は日記『玉葉』の中でこのように記しています。
(前略)而してその後上総国の住人、介の八郎広常、并びに足利太郎〔故俊綱の子と云々〕等も与力し、還つて景親等を殺し了へんと欲する由、去夜飛脚到来し、事大事に及ぶと云々。但し実否知り難し。かくの如き事、浮説端多きか。
(現代語訳)
上総国の住人、介(上総権介)の八郎広常、ならびに足利太郎〔故・俊綱の子とか〕等も頼朝に協力し、景親を亡き者にしようとしており、すでに坂東は事態が深刻になっていると、昨夜飛脚が到来して告げている。ただ、この報告の実否については知るのが難しい。このようなことは、とかく根も葉もないウワサが多いものである。
兼実も半信半疑であるように、これには誤報が含まれていて、足利太郎(忠綱)の藤姓足利氏は頼朝陣営に参加していたのが確認できない上に、忠綱の父親である俊綱は当時存命です。
この当時、足利氏は2つ存在していたため、もしかすると、もう一つの足利、源姓足利氏(足利義兼)のことと混同してしまったものかもしれません。
そして、九条兼実の弟である慈円は著書『愚管抄』の中で、
上総介の八郎広経が許へ行きて勢付きにける後は、又東国の者皆従ひにけり。
(現代語訳)
〔頼朝が〕上総介の八郎広経〔広常〕が許へ行って、勢いが付いた後は、東国の者がみな頼朝に従ったという。
と記しています。
この2つの記述に共通していることは、いずれも上総広常の名が記されており、その広常が頼朝勢に加わったことで、坂東の事態が深刻になり、東国みなが頼朝に従ったといういかにも広常の参入で頼朝が勢いづいたという書き方をしていることです。つまり、上総広常は当時の京都でも知られるほどの勢力を誇っていたのです。
次に、『源平闘諍録』に記されている広常に従って頼朝陣営に加わった武士の名前を拾って、その本拠地を地図で示してみると以下のようになります。
![](https://assets.st-note.com/img/1673391266666-Dm4CoKBCIN.png?width=800)
これを見ると、上総広常に従った武士は上総国だけでなく、下総国にも多くいるのがわかります。彼らはみな両総平氏一族であり、上総広常が両総平氏のリーダー的存在であったことをうかがわせ、ほぼ両総地域を影響下においていることがわかります。
つまり、上総広常が与力しなければ頼朝は房総半島を到底掌握できなかったのであり、広常は頼朝の再起をようやく軌道に乗せた存在であったことがわかるのです。
広常、頼朝の器を量る(『平家物語』より)
以下の話は上総広常が頼朝のもとにやって来た時の様子について、『延慶本平家物語』『長門本平家物語』『源平盛衰記』を参考にしたものです。
上総広常は千葉常胤ら千葉一族が頼朝勢に加わったことを知り、これでとうとう自分は遅参してしまったと思って、急ぎ上総国各地にいる平家方勢力の討伐をすすめました。そして、頑強に刃向かってくる者は討ち、従う者は自軍に組み入れ、10000騎ほどの軍勢を編成して下総へと向かいました。
下総国府に着いて、広常はこれまでの事の次第を告げて頼朝への目通りを願い出ました。ところが、頼朝は会ってくれず、代わりに土肥実平を介して言葉を伝えてきたのです。
「遅参してくるとは思わなかったが、上総国内をまとめて参上してきたことは殊勝な働きである。すみやかに後陣で控えておれ」
これによって頼朝の軍勢は16000余騎となりました。
広常は館へ帰り、主だった郎等たちに、
「この兵衛佐殿(頼朝)という御仁はきっと大将軍になられるぞ。この広常がこれほどの軍勢を引き連れて参ったからには、喜びのあまり急いでお出ましになり、耳に口をつけるように、この広常にささやきごとや持ち上げるようなことをおっしゃるかと思えば、実平を介して言葉を伝えてきよったわ。これを思うに、一つは分不相応に図々しく、一つは大勢力の頭目のような心を持っておられると感じた。これだったら、兵衛佐殿は誰からも容易く計られ、討ち取られることはないだろうし、きっと宿願を遂げられることになるだろうよ。
その昔、平将門が坂東の八ヶ国で暴れまわって、いずれは京都へ攻め入ろうとしていた頃、俵藤太秀郷(藤原秀郷)という兵が多勢を引き連れて、将門の許へ馳せ参じたことがあってな。その際に将門は喜びの余り、髪も結わず、白い寝衣を着たまま、自ら円座(丸く平らに編んで作った敷物)を2つ持って、一つは秀郷に、一つは自分に敷いて、秀郷を様々にもてなしたんだ。そうしたら秀郷はこう思ったっていうんだ。
『この人の様子は軽率である。自分を平親王と称する人が、自分で敷物を持ってきて、私のような民のために敷くなど・・・。逆であろうに。この人は日本国の大将軍にはなるまい』と。
そして、ほどなくして秀郷は将門を見限って陣営を去り、のちには秀郷が将門を討ち取ったんだとよ。
まぁ、それにしても、兵衛佐殿は将門のような軽率な振る舞いをなさらなかったが、せめて御前近くに召してくださっても良いものをなぁ~」
と言っていたということです。
なお、『吾妻鏡』はこの上総広常の遅参についてこう付け加えています。
広常潜かに以為らく、当時の如きは、率土皆平相国禅閤の管領にあらざるはなし。ここに武衛流人となり、輙く義兵を挙げらるの間、その形勢高喚の相無くば、直ちにこれを討ち取り、平家に献ずべしてへり。仍つて内に二図の存念を挿むといえども、外に帰伏の儀を備へて参ず。
この当時、日本全土、清盛の支配が及ばない場所はなかった。そんな中、頼朝は流人となって、軽々しく義兵を挙げられたので、広常はもし頼朝の面相に高みに上る気配がなければ、すぐにこれを討ち取って平家に献じようとひそかに思っていたという。このように、(広常は)内に離反の思いを抱きつつ、外には帰伏するように参上しきたのだ。
この『吾妻鏡』の記述は、同じ両総平氏の千葉氏は献身的に従ったのに、上総氏はそうではなかったとする曲筆と思われ、寿永2年(1183年、または治承7年)に広常が粛清されてしまうという事件の正当化を意図しているものと考えられます。これについて中世史家の野口実先生も、
鎌倉幕府史観のテキストである『吾妻鏡』が広常抹殺を正当化し、また、広常の地位を受け継いだ千葉氏を元来からの両総平氏嫡流に位置づけようとする曲筆をほどこしていることは明らかなのである。
と述べられておられます。
(参考) 松尾葦江編 『校訂 延慶本平家物語(五)』 汲古書院 2004年
麻原美子・小井土守敏・佐藤智広編 『長門本平家物語 三』 勉誠出版 2005年
水原 一 考定 『新定 源平盛衰記 第三巻』 新人物往来社 1989年
黒板勝美編 『新訂増補 国史大系 (普及版) 吾妻鏡 第一』 吉川弘文館 1968年
上杉和彦 『源平の争乱』 戦争の日本史 6 吉川弘文館 2007 年
川合 康 『源平の内乱と公武政権』日本中世の歴史3 吉川弘文館 2009年
上横手雅敬・元木泰雄・勝山清次
『院政と平氏、鎌倉政権』日本の中世8 中央公論新社 2002年
石井 進 『日本の歴史 7 鎌倉幕府』 改版 中央公論新社 2004年
関幸彦・野口実 編 『吾妻鏡必携』 吉川弘文館 2008年
野口 実 『坂東武士団と鎌倉』中世武士選書15 戎光祥出版 2013年
野口 実 『源氏と坂東武士』歴史文化ライブラリー234 吉川弘文館 2007年
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