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【伊豆国】鎌倉北条氏の本拠地(北条氏邸跡〔円成寺跡〕)

(※この記事は2016年10月に訪れた時のものです)

今回は前回もチラッとお話しした北条氏邸跡の紹介です。
では、早速行ってみましょう🎵

はい。ここが北条氏邸跡でございますぅ。

ここも伝・堀越御所ほりこしごしょ跡と同じく、この真新しい石碑とその傍らにある案内板がなければ、絶対史跡だとは思わない原っぱとなっておりまっす😂

でもここが鎌倉時代、全盛を極めた鎌倉北条氏の邸宅があった場所なのです✨

当時はどのような佇まいをした館だったのでしょうか。意外にも質素な造りの館だったのかなぁ。でも北条氏は伊豆国の流通網の中にあって、伊豆の一豪族の頃から都や海外の珍しい文物も集まっていたなんて聞きますから、立派な館だったのかな?どうなんでしょうね。

何もない原っぱを前に想像させていただきました😌

こちらは案内板にあった北条氏邸跡の発掘調査中の航空写真。

守山の谷のようになっている場所に邸宅はあったようですね。立地としては川が近くを流れて、背後には緊急時に登って防御できるように山があるというまさに武士の館の典型例といった感じです。

ちなみに、近くを流れている川は狩野川かのがわという川で、この写真だと上が南の方角で川の上流側になります。なので、川が氾濫した際は守山が自然の堤防になっていたようにも見えますね。

さてさて、案内板がありましたのでまた恒例のイラスト抜き出し🎵この案内板にはニューフェイスがいるようですよ🤣

まずは願成就院がんじょうじゅいんの記事にもご登場いただいた北条時政さん。

まぁ、この方も改めて思えば、一つの時代を作った日本史上の重要人物ですよね。この方がいなかったら、頼朝もどうなっていたかわからないわけですし。

そして…

こちらは北条政子と思いきや、鎌倉政権第9代執権しっけん・北条貞時さだときの側室にして、第14代執権・北条高時たかときの生母である円成尼えんじょうに(または覚海尼かくかいに覚海円成かくかいえんじょうとも)という方です。

この方は鎌倉政権崩壊後、鎌倉北条氏の本拠地であったこの地に戻ってきて、鎌倉北条氏の邸宅を円成寺えんじょうじという寺院にして、代々の鎌倉北条氏の菩提ぼだいを弔ったんだそうです。

鎌倉北条氏は鎌倉陥落の際、東勝寺集団自害がインパクト強すぎで、女性や子供も全員と言っていいほど大多数の人が自害したと私は思っていたので、まさか高時の母が生き延びられていたというのは知りませんでした。

案内板によれば、この円成寺はその後、室町時代には上杉氏の一族の女性が尼となって、尼寺として存続したそうです。

でも、今はお寺が残っていないので、戦国時代か江戸時代には寺に入る人もいなく荒廃してしまったんでしょうね😢

ちょっとわかりづらいかもですが…

北条氏邸跡の前を流れる狩野川。鎌倉時代から今現在に至るおよそ800年ほどでも、この川はどれほど流れを変えたことでしょうか…。

訪れたこの日は天気もそこそこ良くて、バーベキューをやっている団体さんがいたりして、川の流れもとても穏やかな川岸の風景でした😌

あ、そうそう今回の終わりに。
北条氏邸跡のすぐ横からは、守山の登山道があります。

ただこの日は登るのをやめました。

だって入口に「スズメバチ営巣中。伊豆の国市」なんて看板が…😨
しかも虫よけスプレーを持ってきていなかったために、様々な虫たちが飛び交って、手荒い歓迎を受けましたので、登る気完全に萎えました・・・。

でも、チョット入口までは写真撮りましたよ🎵

ちょっと変わった感じの岩肌

これ、柱状節理ちゅうじょうせつりって言うんですよね?
チョット勉強しましたよ(笑)

えっと、どうしてこういう岩ができるかは…溶岩が冷えて固まる時にできる割れ目で…えっと…。興味ある方は調べてみてください❗️🤣

伊豆半島は世界ジオパークにもなっているので、このようにあちこちでかつて活発だった火山活動の痕跡を見ることができます。

守山からの眺め

これは昔守山に登った時に撮ったもの。このように守山からは田方たがた平野(盆地)を一望することができます。
(これは確か冬に撮ったものなので、登るなら冬の方がいいのかも)

ということで、今回はここまでです。
最後までお読みいただきありがとうございました。


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