【駿河国・葛山城 vol.1】葛山氏の本城
これから何回か分けて静岡県裾野市にある葛山城をご紹介していきたいと思います。
葛山城は駿河国(今の静岡県東部・中部)の国人領主であった葛山氏の本拠地にある山城です。小規模の城ながら遺構が比較的良好な状態で残されており、また近隣に葛山氏の館跡の遺構もあって、典型的な中世武士の本拠地の様子を今に伝えています。
では、第1回目の今回は葛山城の大まかな説明として、城の立地や歴史、構造(曲輪の配置)などについてお話ししていきます。
葛山氏の置かれた状況
葛山氏の説明でよく使われる「国人領主」って何?ってことなんですが、中世後期、小規模ながらその国の一部地域を直接支配していた武士を指し、他に「国衆」などとも呼ばれます。
もとは鎌倉時代の地頭(鎌倉政権が各地の公領〔国の土地〕や庄園などに設置して、土地管理、年貢・兵糧米の徴収、治安維持などを担わせた者)などが起源です。
他に有名な国人領主を挙げると、井伊氏は遠江国(今の静岡県西部)の国人領主でしたし、中国地方に覇を唱えた毛利氏はもとは安芸国(今の広島県の西半分)の国人領主でした。
しかし、国人領主の直接支配する地域は比較的狭い範囲だったために、個々の勢力はあまり大きくなく、より勢力の大きい勢力、例えばその国の守護大名や守護代などの有力武士に仕える者やその時の国の情勢に応じて、複数の有力武士の傘下に入って自領の安堵を図る者など様々でした。
この葛山氏も例にもれなく、大勢力の間で大変苦労させられた国人領主でした。
これは今の静岡県東部の航空写真です(画面右上方向が北になります)。この勢力分布はだいたい永禄年間(1558年~1570年)中頃のものです。
画面中央右寄りに黄色で示した葛山城・千福城・大畑城といった葛山氏の諸城があります。そして、これら葛山氏の諸城を囲うように赤色で示した小田原北条氏の城が多数、青色で示した今川氏の城が何個かあり、ほぼぐるりと囲われてしまっています。(地図にはありませんが、北方にはあの甲斐武田氏もいます。)
葛山氏は小田原北条氏、今川氏の間でうまく舵取りをして戦国時代を切り抜けようとしていました。こうして地図で示してみると、葛山氏の置かれていた状況がよくわかります。
葛山城の立地
葛山城の立地ですが、葛山城は愛鷹連峰の東側にある愛宕山と呼ばれる山の山上にあって、平時の居館(葛山館)をはじめ葛山氏の本拠地一帯を見渡せる場所にありました。
中世の武士は、戦時に立て籠る山城(詰城)とそのふもと近くに平時の館を備えて領地経営を行うというのが典型的でした。
例えば、井伊氏は平時井伊谷の街中にある館に住まい、戦時になると近くの井伊谷城に立て籠りました。他にも甲斐武田氏の平時に住まう躑躅が崎館とその詰城積翠寺の要害城、今川氏の今川館(駿府館)と賎機山城などが挙げられ、その例は他にたくさんあります。
ちなみに、葛山氏の本拠地は山間の土地ながら、領内を足柄道が通り、人馬や荷物の往来が盛んな場所でした。葛山氏はこうした立地を生かして、足柄道沿いに千福城や大畑城といった城を築いています。おそらくそれらの城を拠点に街道を押さえ、通行税のようなものを徴収して、それを活動の財源にしていたと思われます。
葛山城の歴史
続いては葛山城の歴史を簡単にお話しします。
この葛山城の築城時期は明確ではありませんが、南北朝時代、おそくても室町時代中期には城が構えられていたと思われます。
そもそも築城した葛山氏は、平安時代からこの地に勢力を持っていた一族で、かなりの歴史をもった家と言われています。
一説に葛山氏は、御堂関白こと藤原道長に政争で敗れた藤原伊周(道長の甥に当たります)の子孫と伝えられています(そうなると出自は藤原北家になります)。
なので、平安末期の源平争乱の時期にはすでに葛山城の前身となる砦のようなものがすでに築かれていた可能性もあります。
この葛山城の防備が強化されていったのは、天文年間(1532年~1555年)にあった今川氏と小田原北条氏との兵乱である「河東の乱」、永禄11年(1568年)から始まる甲斐武田氏の駿河侵攻に端を発する甲斐武田氏と小田原北条氏とが争った時期だと思われます。
「河東の乱」では小田原北条氏と今川氏とが争っただけに、葛山氏は大変難しい舵取りを迫られたと思われ、乱自体は小田原北条氏に属する形で参戦していたようですが、乱が収まり今川と北条の間に和議が結ばれると、再び今川氏とも関係を結んだようです。
そして、甲斐武田氏による駿河侵攻では、葛山氏はいち早く武田に属したこともあって、今川氏真に味方する小田原北条氏によって葛山城を奪われてしまいました。この時葛山当主であった葛山氏元は、武田のもとにいて無事でしたが、自分の所領を失ってしまうという事態に陥りました。
その後、武田と北条が和睦したのに伴って、葛山領は氏元のもとへ返還されましたが、氏元は永禄12年(1569年)以降、史料での登場がなく、かわって葛山氏として登場するのが、信玄の六男である信貞でした。
信貞は葛山氏の娘と結婚することで葛山の名跡を継いだことになっており、事実上武田によって葛山が乗っ取られた形となってしまいました。
ともあれ、葛山は以後武田が領することになりましたが、その武田も天正10年(1582年)織田氏によって滅亡させられ、葛山信貞も甲斐善光寺にて自刃、武田と命運をともにします。そして、葛山城は主不在でそのまま廃城になったとされています。
葛山城の曲輪配置について
葛山城は御覧のように階郭式(曲輪を階段状に配置する方式)と呼ばれる曲輪の配置になっていて、一番下段の堀底道(空堀)の上段に二の郭とその帯曲輪、さらにその上段に一の郭を配しています。そして城の東西を二重堀切によって尾根筋を絶つことで城域を形成しています。
なお、一の郭と二の郭の北側は急峻な斜面となっており(絵では描けてないところ)、その斜面の途中に数条の竪堀が走っていて容易に登る事はできなくなっていました。
また、『日本城郭大系』では東二重堀切の東側に東曲輪、大手曲輪、南側に突出する形で袖曲輪(南曲輪)があり、西二重堀切の西側に西曲輪を配していたと説明しますが、現状では若干尾根筋を削平したような痕跡は認められるものの、明瞭な形で遺構を確認できません。もしこれらの曲輪が存在した場合、葛山城は連郭式の山城(山の尾根に沿って曲輪を並べる方式)とも言え、階郭式と連郭式の複合型の山城ということになります。
ということで今回はここまでです。
次回からは葛山城の城内を現地写真を載せて案内していきたいと思います。
それでは最後までお読みいただきありがとうございました。
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