![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/144134443/rectangle_large_type_2_0b6362feb0fd81e9d4c811765d71e69d.jpeg?width=800)
【治承~文治の内乱 vol.24】 頼朝、安房国へ渡る
頼朝、死地からの脱出
石橋山から箱根山中をさまよい、なんとか箱根権現で息をつけた頼朝でしたが、いつまでもそこに長居するというわけにはいきませんでした。
この箱根権現の別当(トップ)である行実やその弟である永実は頼朝に好意的でしたが、箱根権現の者のなかにも、平家に縁があったり、平家に遠慮したりして、頼朝の来訪を良く思わない者がおり、決して安全とは言えない場所だったのです。
頼朝を快く思わない者の代表は行実のもう一人の弟であった智蔵房良暹で、良暹は頼朝によって討ち取られた山木兼隆の祈祷師を勤めていたため、頼朝を憎んでいました。
行実は頼朝に言います。
「良暹の武勇については大したことございませんが、良暹が人数を集め、さらに謀をめぐらせて大庭景親と通じるということにでもなれば、景親らもすぐに駆けつけてきて、御身はいよいよ危うくなることでしょう。早くお逃げ下さい」
そこで頼朝たちは箱根権現から離れることにし、永実も護衛として付き添い、土肥実平の本拠地である土肥郷へ向かうことにしました。
一方、北条時政・義時父子は頼朝と別れて箱根権現から甲斐国へと向かいました。
これは『吾妻鏡』によれば甲斐の源氏に応援を頼む使者として赴いたものであったといいます。
(→これについては不審な点ありです。いずれ詳しくお話ししたいと思います)
結局、頼朝たちは土肥郷へは行けませんでした。なぜなら、伊東祐親の軍勢が土肥実平の館はもちろんのこと、土肥郷一帯に火を放っていたからです。頼朝一行は土肥郷が見渡せる高所でその様子をうかがうしかありませんでした。
『源平盛衰記』には、この時土肥実平が一差し舞った様子が描かれています。
「土肥に三つの光あり。第一は八幡大菩薩がわが君(頼朝)を護ってくださる柔らかい光、第二はわが君が平家を討ち滅ぼし、日本全国あまねく照らす光、第三はこの実平をはじめ、君に志しある者が、そのご恩によって子孫繁栄する光なり。わが館は何度も焼ければ焼け、君がこの世に君臨さえしてくだされば、土肥の杉山も広い。木々の枝葉が枯れることはまさかあるまい。木を伐っては植え替え、また木を伐っては植え替えすれば何も嘆くことはあるまいよ」
実平は歌ってその場にいた者たちを励ましました。頼朝をはじめその場にいた者はみな実平の舞に勇気づけられたといいます。
その後、頼朝たちは実平の妻から、三浦の者が安房国へ落ち延びたことを知らされ、三浦の者たちと合流しようと自分たちも山を下りて海路安房国へ渡ることにした。そして、土肥郷の住人であった貞恒という者が実平の命を受けて小舟を手配し、真鶴よりなんとか海へ漕ぎ出すことができました。時に、石橋山の戦いから5日経った治承4年(1180年)8月28日のことでした(『吾妻鏡』)。
なお、これまで頼朝に随行していた小早川遠平は傍を離れ、北条政子のもとへ向かい、頼朝の近況を伝えに行きました。
政子は頼朝が山木攻めのあと相模国へ出立して以来、伊豆山の文陽房覚淵の協力により、伊豆山近くの秋戸郷という場所に避難していたのです。後年、政子はこの時のことを、頼朝を心配するあまりまるで魂が消え入るような心地であったことを述べています(※1)。
頼朝、安房国に上陸
真鶴岬から海路、房総半島へ向かった頼朝一行がようやく安房国平群郡(平北郡とも)猟嶋(現在の千葉県安房郡鋸南町竜島付近)に上陸し、先に落ち延びていた三浦党の武士たちと合流を果たすことができたのは、治承4年(1180年)8月29日のことでした。
『吾妻鏡』にはこの時の一同の様子として、‟数日の欝念、一時に散開す”と記していますが、頼朝たちはこれで安心できる状況になったとは決して言えませんでした。
上陸した安房国をはじめ、房総半島の国である上総・下総といった国にも頼朝に同調の意志を示していない勢力が少なからずあったからです。
そこで頼朝は房総の国々をはじめ、坂東各地へ味方となるよう早速使者を送りました。まず安房国では安西、丸、長狭、東条、神余などといった在地の武士がおり、その中の安西景益に使者を遣わしました。
景益は頼朝が幼少の頃、側近くに仕えていたこともあるという河内源氏と縁故のある武士の一人だったのです。頼朝は景益に、
「以仁王の令旨を厳粛に受け止め、他の在庁官人をも引き連れて参上し、もし平家の意向を受けて都から下ってきた者がいるのなら、その者たちを捕らえよ」
と伝えました。これは景益が安房国で有力な在庁官人(その国の行政機関である国衙の役人)の一人であったため、景益の力で安房国の他の勢力もまとめあげてくれることを期待してのものでした。
続いて上総国の上総広常や下総国の千葉常胤にも使者を遣わしました。かつて北条時政が挙兵する直前の頼朝に、三浦・上総・千葉の三氏がこぞって味方すれば坂東で優位に立てると助言したように、この2氏が味方するかしないかはこれからの頼朝の前途を左右するほど重要な意味合いを持っていました。そのため両名への使者にはそれぞれ頼朝が信を置く者が選ばれました。上総広常には和田義盛を、千葉常胤には藤九郎盛長(安達盛長)を派遣したのです。
頼朝と三浦党の合流(『平家物語』)
畠山氏、江戸氏、河越氏らを中心とした武蔵国の連合軍に衣笠で敗れ、海路落ち延びた三浦の人々は、なんとか安房国北方の龍が礒にたどり着きました。そして、そこでしばらく休んでいると、遥か沖の方に、時々雲に隠れながらも一艘の舟が近づいてくるのが見えました。三浦の人々は怪しんで、
「あれに見える舟は怪しくないか。これほど海が荒れているというのに漁船、釣船、商船というわけではあるまい。兵衛佐殿の舟か?それとも敵の舟か…」
彼らはもしあれが敵の舟であったらと、弓の弦を湿らせていつでも矢が放てるようにしていましたが、そうこうしているうちに舟がどんどん近づいてきました。すると、舟に頼朝の笠印(敵味方を判別するため兜につけた目印)がついているのが見えました。そこで三浦の人々も舟をこぎ出し、自分たちの笠印を見せて応じました。
一方、頼朝たちの方もその笠印を見て三浦の者たちだとわかりましたが、なお用心して舟の打ち板の下に頼朝を隠して、その上に土肥実平をはじめ供の武士たちが居並びました。
やがて頼朝の舟と三浦の舟が合流しました。三浦方の和田小太郎(義盛)が、
「おい、佐殿はこちらにいらっしゃらぬのか」
この問いかけに頼朝の舟に乗っていた岡崎義実が、
「我らも(頼朝の)所在がわからなくて、尋ね回っているのだ」
と、まずは知らぬように装って答え、互いに昨日、おとといあった戦の事について語り合いました。
「大介(三浦義明)がな・・・」
「与一(佐奈田義忠、岡崎の嫡子)が討たれてしまったことは…」
と、義盛も義実も泣く泣く石橋山の戦いの事や衣笠城の戦いのことを話して、それぞれの思いのたけを打ち明けていきました。
頼朝は舟の打ち板の下で、黙って彼らの話に耳を傾けていましたが、そのうち、
「ああ、私が世に立ったのならば、この者たちになんとしても恩を返したいものだ…。それに、こんなふうにいつまでも隠れていては、三浦の者たちに恨まれてしまうだろう」
と様々な思いを巡らし、ついに打ち板の下から出て、
「頼朝はここにいるぞ!」
と、三浦の者たちの前にその姿を現したのです。
三浦の人々は頼朝の凛々しい姿を見て、(頼朝が)無事であったことの悦びをかみしめつつ、それぞれが涙を流しました。頼朝の姿を見た和田小太郎は、
「父親も死ね、子孫も死ぬなら死ね。今こうして君(頼朝)にお目にかかれたことはこれに過ぎる悦びはございません。これで君や我々の本来の願いが遂げられること、もはや疑いようがございません。つきましては、今はただ従う者どもに国を分け与えくださいませ。この義盛にはぜひとも侍所の別当の職を賜りとうございます!以前、上総守(上総介)忠清(藤原忠清)が坂東八ヶ国の侍所の別当になって、皆にもてなされたさまを見て、うらやましく思っていたのです!」
と、頼朝に早くも恩賞をねだりました。すると頼朝は、
「それはまったく気の早いことよなぁ~」
と、小太郎の申し出を笑ったのでした。
注)
※1・・・『吾妻鏡』文治二年(1186年)四月八日条
(参考) 松尾葦江編『校訂 延慶本平家物語(五)』 汲古書院 2004年
上杉和彦 『源平の争乱』 戦争の日本史 6 吉川弘文館 2007 年
川合 康 『源平の内乱と公武政権』日本中世の歴史3 吉川弘文館 2009年
上横手雅敬・元木泰雄・勝山清次
『院政と平氏、鎌倉政権』日本の中世8 中央公論新社 2002年
石井 進 『日本の歴史 7 鎌倉幕府』 改版 中央公論新社 2004年
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか? いただいたサポートはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます。