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【治承~文治の内乱 vol.17】 鎌倉政権の出発点?

頼朝が山木兼隆やまきかねたかを討った直後の治承じしょう4年(1180年)8月19日。この日、頼朝は早速、とある文書を発給したことが『吾妻鏡』に記されています。これがその文書です。
 
くだす 蒲屋かばやの御厨みくりや住民の所
 早く史大夫しのたいふ知親ともちか奉行ぶぎょう停止ちょうじすべき事
右、東国に至りては、諸国一同庄公みな、御沙汰なすべきのむね親王宣旨しんのうせんじの状に明鏡めいきょうなり。住民等その旨を存じ、安堵あんどすべきものなり。よつておほする所、ゆえもつて下す。
治承四年八月十九日
 
これは、史大夫知親という人物が行っている蒲屋御厨の管理を停止して、以後は頼朝がそこの管理をするけれども、これは親王(以仁王)がお認めになったことであるから、住民は安心するようにという内容の下文くだしぶみです。

下文は鎌倉時代において本領安堵や新恩給与をする際に用いられた文書形式で、こうした下文の発給こそが鎌倉政権の統治の根幹ともいえる重要なものでした。

 従来この下文については、いくつかの決定的な誤りや不審な点があるため、後世の『吾妻鏡』編者たちがそれらしい文書を載せた偽書、つまりニセモノであると見做され、信憑性は薄いとされてきました。ところが、中世史家の本郷和人氏はこの文書がホンモノではないかと指摘、その理由としてむしろそのいくつかの決定的な誤りや不審な点があるからこそと指摘されています(※1)。

では、本郷氏が指摘する決定的な誤りや不審な点というのはどれでしょう。次に挙げてみます。

まずは”親王宣旨”という言葉。これは依然「以仁王の令旨」のところでお話ししましたが(vol.2)、宣旨とは天皇の意向を受けて朝廷から発行される文書であって、親王の意向を受けて発せられる文書は”令旨”としなければいけません。(もっともこの親王というのは以仁王を指しているため、厳密には”御教書”とならなければいけません)。

そして、もう一つは文書の終わりにある”ゆえもつて下す”という言い回しがおかしいという点。単に”以て下す”という言い回しで終わる文書は他に例があるのですが、この文書のように”故に以て下す”という言い回しで終わる文書は他に例がなく、仮に”以て下す”の言い間違いだったとしても、こうした文書の終わり方としては妥当ではないといいます。

そこでこの文書を作成(奉行)した人物は誰かといえば、藤原邦通ふじわらのくにみちということになっています。邦通は前項でも述べたとおり、”洛陽らくよう放遊の客”であったのを、その知識と芸達者ぶりを買われて、頼朝の腹心である藤九郎盛長とうくろうもりながによって頼朝の右筆ゆうひつ(秘書)にと推挙された人物です。

つまり、本郷氏の指摘は、この当時の頼朝の周囲にいた者で、”文”に通じた者は邦通ぐらいしかいなかったため、彼に文書を書かせてみたが、その邦通もこうした文書の知識に乏しく、作成に未熟であったため、変な言い回しの文書ができあがってしまったとするのです(※25)。

確かに、当時頼朝の周囲にいる武士には、文盲(字を読み書きできない)ではなかったとはいえ、朝廷が発行するようなしっかりとした形式に乗っ取った行政文書を書ける人物はいなかったかもしれません。
そのように考えれば、これまで言われてきた『吾妻鏡』編者がそれらしい文書を作って載せた偽書であると見做すと考えるのは奇妙に感じてきます。なぜなら、『吾妻鏡』が編まれた鎌倉中期にもなると、鎌倉政権内に文書の書式を心得ている者はかなりおり、『吾妻鏡』の編集者の中にもそういった心得を持つ者がいたとしてもおかしくありません。それなのにこうした変な言い回しの文書が掲載されているのは不思議であるし、むしろ『吾妻鏡』の編者たちはこの文書のおかしい点に気付いていたはずで、正しい形に直すこともできたはずであるのに、なぜそのまま掲載したのか新たな疑問も生まれてくるからです。

この疑問に対する答えはあくまで推測に過ぎませんが、この文書は本郷氏が述べるように‟ホンモノ”で、鎌倉政権にとって記念すべき第1号の文書、たとえ書式や諸々の言い回しが誤っていたとしても最初に発給された文書として『吾妻鏡』編者たちが忠実に掲載したものだったからなのではないのでしょうか。
 この文書が載る記事(『吾妻鏡』治承四年八月十九日条)に続けてこのようなことが書いてあります。

‟これ関東の事、施行の始めなり”(これが関東における施政の始めである)

つまり、この文書の発給こそが頼朝(鎌倉政権)による初めて行われた政治だったということです。このちょっとした文書が、鎌倉政権の由緒を記したとされる『吾妻鏡』にそのまま掲載された意味は意外にも大きかったのです。

なお、頼朝の発給する下文は、こののちどんどん洗練されていきます。都で実務官僚をしていた下級貴族が鎌倉へやってくるなど、次第にしっかりとした形式に乗っ取った文書を書ける人材が頼朝の周りに集まりだしたためです。そういう点を考慮に入れれば、蒲屋御厨への下文はのちに鎌倉政権へ繋がる最初の下文の形であって、頼朝たちが文書による政治をしだした原点であると見ることができ、さらに言えば、ここが鎌倉政権の出発点だったと言えるのではないでしょうか。

注) 
※25・・・本郷和人『武力による政治の誕生』シリーズ選書 日本中世史1 講談社 2010年 p141、142

(参考)
上杉和彦 『源平の争乱』 戦争の日本史 6 吉川弘文館 2007 年
川合 康 『源平の内乱と公武政権』日本中世の歴史3 吉川弘文館 2009年
上横手雅敬・元木泰雄・勝山清次
『院政と平氏、鎌倉政権』日本の中世8 中央公論新社 2002年
石井 進 『日本の歴史 7 鎌倉幕府』 改版 中央公論新社 2004年
本郷和人『武力による政治の誕生』シリーズ選書 日本中世史1 講談社 2010年

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