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【治承・寿永の乱 vol.19】 佐奈田与一と俣野景久との死闘

北条時政と大庭景親の言葉争い

頼朝と北条、佐々木の者たちをはじめとして、伊豆・相模さがみ両国の住人で頼朝に味方する武士たち300騎足らずの軍勢は、相模国の土肥どひ郷を出て早川はやかわ河口付近に陣を敷きました。
ところが、地元の武士団である早川党が、
「ここは戦場にはふさわしくない場所です。箱根湯本の方から回り込まれて退路を塞がれ、囲まれてしまうと一人も逃れることはできないでしょう」
と、頼朝に進言。これを受けて8月22日の夕方、早川より土肥郷の方へ少し引き返した石橋という場所に改めて陣を敷き、陣より上の山腹には掻楯かいだてを設置し、陣より下にある大道だいどう(街道)は封鎖して防御を固めました。

一方、平家方である大庭景親おおばかげちか武蔵むさし・相模両国の軍勢を催して、大庭三郎景親を総大将に、弟・俣野五郎景久またのごろうかげひさ、長尾新五(為宗ためむね)、長尾新六(定景さだかげ)、八木下やぎした(柳下)の五郎、香川かがわ五郎以下の鎌倉党かまくらとうは一人も欠けることなく、この他には海老名源八えびなげんぱち権守ごんのかみ秀貞ひでさだ季貞すえさだ)、その子息である荻野おぎの五郎、荻野彦太郎、海老名小太郎、川村三郎(河村義秀かわむらよしひで)、原惣四郎そうしろう曾我そが太郎祐信すけのぶ渋谷庄司重国しぶやしょうじしげくに山内やまのうち滝口たきぐち三郎(経俊つねとし)、山内滝口四郎、稲毛いなげ三郎重成しげなり久下くげ権守ごんのかみ直光なおみつ、子息である熊谷二郎直実、阿佐摩あさま(浅間)二郎、広瀬太郎、岡部六野太ろくやた忠澄ただずみなどをはじめとして、主な者だけでも300余騎、郎等ろうとう家子いえのこまで含めると3000余騎にて、石橋へ向かう道すがら頼朝に味方する者たちの家々を焼き払いながら、23日寅卯の刻(5:00ごろ)に頼朝の陣と谷一つ隔て、背後に海を控えて対峙しました。

8月23日酉の刻(17:00~19:00)。大庭方の陣では軍議が開かれていました。
そこで稲毛重成が、
「今日はすでに日が暮れた。合戦は明日になるか」
そう言うと、これに景親が応えました。
「明日になると、兵衛佐殿ひょうえのすけどの(頼朝)の方に勢いがつくかもしれない。それに三浦の人々がこちらへ向かって来ているとも聞く。この度は山岳戦、足場が悪い戦場でもあるし、挟撃されて両方を防ぐことは難しかろう。なれば、今より佐殿すけどのを追い落とし、明日三浦の人々と戦おうではないか」
これを受けて、大庭勢3000余騎はときの声を上げて威勢を示しました。

一方の頼朝勢も負けじと鬨の声を上げました。それと同時に鏑矢かぶらやを放ったため、音は山々にこだまして、まるで大庭勢に劣らぬ兵力がいるように聞こえました。

大庭景親は陣頭であぶみを踏ん張り、弓杖ゆんづえついて立ち上がり、
「そもそも近年日本国に光を放ち、肩を並べる者もいない平家の御世を傾けようと、それを犯す者は誰人であるか」
と、頼朝勢に向かって言うと、時政がこれに応じ、
「お前は知らぬのか。わが主君は清和せいわ天皇の第六王子・貞純さだずみ親王の御子である六孫王経基ろくそんのうつねもとの7代後胤、八幡太郎殿はちまんたろう義家よしいえ)の御彦孫(曾孫やしゃご)にあたる兵衛佐殿である。兵衛佐殿は太上天皇(後白河法皇)の院宣を賜って、その御首にかけておられる。坂東8カ国の者で、誰が兵衛佐殿の御家人でないというのだ。馬に乗りながらあれこれ申すのも奇怪である。速やかに馬より下りてものを申せ。兵衛佐殿の御方には、この北条四郎(時政)をはじめとして、子息の三郎宗時、小四郎義時、佐々木の一党や土肥、土屋の者たちまで伊豆・相模両国の住人がことごとく参っておる」景親は返して、
「昔、八幡殿(義家)の後三年の役に従軍して出羽国でわのくに金沢柵かねざわのさくを攻めた際、16歳にして先陣を駆け、右目を射られながらも矢を射返してその敵を討ち取り、その名を後世に残した鎌倉権五郎景正かまくらごんごろうかげまさの子孫である大庭景親を大将軍として、兄弟親類3000余騎の軍勢である。そちら様の兵数こそみすぼらしく見えますぞ。それなのにどうして我らに敵対なさるのか」
時政もまた返して、
「そもそも景親は景政の子孫と申すのか。さぁ、これで子細はわかった。それならばどうして三代相伝の主君に刃向かい、弓を引き、矢を放つのか。速やかに引き退かれよ!!」
景親、
「されば(頼朝が)主君ではないとは申さぬ。ただし!今は敵である。弓矢を取るのも取らぬのも、恩こそが主君である。今は平家からの御恩が山より高く、海より深いものである。昔を懐かしんで降伏などするものではない!」

両者一通りの言葉争いを交わすと、戦いの時は満ちました。
頼朝は言います。
「相模・武蔵両国の名のある者たちは皆大庭方にいる。中でも大庭景親と俣野景久は名高い武士と聞く。果たしてその者たちと誰に戦わせるか…。」
すると、傍らにいた義実は前へ進み出て、
「敵一人を恐れて戦わぬ者などおりますでしょうか。親だから言うのではないですが、私の息子である義忠がよろしいかと」
と、自分の息子である佐奈田与一さなだよいち義忠よしただを推薦しました。
そこで頼朝は義実の推薦通り、早速佐奈田義忠を呼んで先陣を命じることにしました。

佐奈田与一(義忠)と俣野景久の一騎打ち

かくして先陣の命を受けた義忠は、郎等の佐奈田さなだ文三ぶんぞう家安いえやすに告げました。
「佐奈田へ戻って、母にも女房にも申せ。『義忠は今日の戦において先陣を切ることとなった。二度と生きて帰ろうとは思わぬ覚悟だ。もし兵衛佐殿が天下を収めたのなら、二人の子供を佐殿のもとへ参らせて、岡崎と佐奈田をそれぞれ継がせ、その後見をしつつ、義忠の後生ごしょうを弔ってくれ』と伝えてくれ」
しかし、家安は義忠の傍を離れるのはどうにも承服できないとみえて、
「殿を2歳の年より今年25歳になられるまで守り役を務め、その殿が今死ぬとおっしゃるのを見捨てて帰るわけには参りません。それしきのことならば、雑色ぞうしきの三郎丸に申しつければよろしいかと」
と、家安は三郎丸にこの旨を伝え、佐奈田へと遣わしました。
こうして遺言を残した義忠は覚悟を決めて、17騎の手勢とともに陣頭へ駒を進めて名乗り出ます。
「三浦大介義明が舎弟、三浦悪四郎義実が嫡男、佐奈田の与一義忠、生年二十五。源氏が世を執ろうとする戦いの先陣である。我と思う者は出てきて戦え!」
名乗りを上げると敵陣へ向かって一気に駆け出しました。大庭方の軍勢もこの義忠の言葉を聞いて、
「佐奈田はよい敵である。いざ戦え」
と、長尾新五(為宗)、新六(定景)、八木下の五郎、荻野五郎、曾我の太郎(祐信)、渋屋庄司(重国)、原四郎、瀧口三郎(経俊)、稲毛三郎(重成)、久下の権守(直光)、加佐摩三郎、広瀬太郎、岡部六野太(忠澄)、熊谷次郎(直実)を始めとして、主だった者73騎が一斉に大声をあげて駆けだしました。しかし、弓手ゆんで(左手)は海、馬手めて(右手)は山の急峻な地形のうえ、日もすっかり沈んであたりは真っ暗、それに亥の刻(21:00~23:00ごろ)から降り出した雨で、たださえ通りにくい狭い道はますます通りにくくなっていました。前へ進もうと気持ちは逸っていても思うように進めず、もはや馬の進むように任せるほかない状況でした。

大庭景親は弟である俣野景久に義忠と戦うよう指示しましたが、景久は言います。
「あまりにも暗くて敵も御方もわかりにくい中で佐奈田と戦えと言われてもなかなかできないであろう」
そこで景親は、
「佐奈田は葦毛の馬に乗っており、肩白の鎧に裾金物を打っていて、白い母衣をかけている。それを目印にして戦え」
と、義忠の出で立ちを細かく伝えると、それを承知した景久はようやく戦場へ駆けだしていきました。ところが、
「佐奈田の与一はこのあたりにいるはずだが、姿が見えぬということは、すでに戦場を離脱したか」
義忠の確かな居場所を戦場で聞いてやって来たはずですが、姿が見えません。
すると、真横から、
「佐奈田与一義忠ここにあり。我を探すのは誰であるか」
と返事をする者がいます。
「俣野五郎景久なり」
景久は名乗るや近寄って、その返事する者を見てみれば、馬は葦毛の馬、鎧には裾金物が打ってあり、まさに景親が言った義忠の出で立ちそのものだったのです。やがて両者は互いを敵と認識するや、すぐに馬上から組み合い、押し合いへし合い激しくもみ合っているうちに馬から落ち、上になり下になり、石橋山の急斜面を転げて、もう少しで海というところまで落ちました。
景久は大力の持ち主として知られていましたが、どうしたことか景久がうつぶせの体勢で下になってしまい、起き上がろうとしても上には義忠がしっかり乗っかって起き上がることができませんでした。景久は自身の危機に、
「大庭三郎の舎弟、俣野五郎景久、佐奈田与一に組み付いたぞ!みな続けや続け!」
と応援を求めたが、急斜面を転げ落ちたせいで、皆が戦っている場所から離れてしまい、すぐに駆けつける者は誰もいませんでした。
やがて大庭方の長尾為宗(新五)がやって来ました。為宗は組み合っている二人を見つけて、
「やや、上が敵か?下が敵か?」
為宗が敵味方見分けがつかぬ様子で問うと、義忠は、
「上が景久だ。間違えるなよ、長尾殿」
と言うと、景久もすかさず、
「下が景久だ。誤るなよ、長尾殿!」
こうして両者は上だ下だ騒ぐものの、為宗は暗さもさることながら、両者の頭が一カ所にあるためどっちがどっちなのかわからずじまいでした。
「上が景久で、下が佐奈田だ!」
「上が佐奈田!下が景久!!」
そのうち、景久はしびれを切らし、
「愚かな者だな!鎧の金物を探ればよいものを!」
そして為宗が二人の鎧の引き合わせを探ろうとしたその時、義忠は景久の上に乗ったまま足を上げて為宗の胸のあたりを強く蹴って突き放しました。
ふいをつかれた為宗は蹴られるままに2、3m斜面を下ってそこに倒れました。
その隙に義忠は刀を抜いて景久の首を掻こうとするものの、掻くことができません。刀を持ち上げてかざして見れば、鞘巻の栗形が欠けて鞘ごと抜けてしまっています。そこで義忠が鞘尻を咥えて刀を抜こうとした時、今度は為宗の弟である定景が義忠の胡録やなぐいのあたりに跳びかかりました。そして兜の天辺てへんの穴に手を入れ、ずずっと引き仰のけさせるとそのまま義忠の首を切りました。

こうして景久はなんとか窮地を脱しましたが、これ以上戦をすることができませんでした。首のあたりが大変痛むのです。触ってみると手が血で濡れてしまうほどです。改めて義忠を見てみれば、鞘尻が1寸(約3cm)ばかり砕けた刀を持っています。景久は思った以上に強い力で鞘の抜けない刀で刺されていたのです。
「俣野五郎景久、佐奈田与一(義忠)討ち取ったり!」
これを聞いた頼朝方は嘆き悲しみ、大庭方は歓びますます士気が上がりました。

歌川国芳 真田与一能久と俣野五郎景久 大錦三枚続横絵 天保6年(1835年)

家子いえのこ・文三の討死

義忠の父である岡崎義実は頼朝に、
「与一冠者はすでに討たれたようにございます。これで私は十人の子に先立たれました。かくなる上はせめて君(頼朝)の治める世を見ることが我が願いにございます。」
と言うものの、さすがに頼もしかった息子の死は辛く、鎧の袖を涙で濡らしました。
頼朝はそんな義実をあわれげに思い、
「惜しい兵を討たせてしまうことこそ口惜しい。もしこの頼朝がここで命を落とさずに生き長らえるならば、必ず義忠の供養をしよう」
と義実を慰めました。

ところで、義忠の家の子である文三家安は、義忠が討たれた場所より尾根を一つ隔てたところで戦っていました。大庭方の稲毛重成は、家安に、
「主はすでに討たれたぞ。お前は早く逃げれば良かろうよ」
と声をかけたが、これに家安は、
「幼少の頃より馬で駆けること、相手に組みついて戦うことは習ってきたが、逃げる事はいまだ知らない。佐奈田殿が討たれたと聞いてますます戦う気力が増すというものよ!」
と、なんと敵八人もの首をとる奮戦をしてみせ、その後討死にを遂げたということです。(前半終り)

(参考)                                        松尾葦江編 『校訂 延慶本平家物語(五)』 汲古書院 2004年
麻原美子・小井土守敏・佐藤智広編 『長門本平家物語 三』 勉誠出版 2005年

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