孤独はともだち
ひとりでいることは悪いことじゃないよ、という話。
フィンランドに住み始めてからこっち、ルームメイトはいるものの、お互い自分のスペースを大事にして、深く関わり合っていないし、友人たちとは、とても心地よい距離感でつきあっているし、配偶者も恋人もいないので、わたしは基本、ひとりだ。
国際結婚で在住している日本人女性が多いので、結婚なし、彼氏なし、(貯金なし ウッヒョーイ☆)と言うと、初対面の人には憐れまれるか、珍獣を見るような目で見られるほど。でも、こんなんでも雑草よろしく、しぶとく生きている。
外での仕事や勉強、人と会う用事のある以外は、何時に起きて寝るのか、一日何をして何を食べるか、全部自分で決め、
部屋をかわいく飾るのも、掃除、洗濯、料理も、全て自分のためだけにやって、わりと深刻なハプニングが起きても、ほぼ全部自分でどうにか解決(せざるを得ない)、よくわけのわからない病気になっても、ひたすら寝て治し、
同時に、突然嵐のように襲いかかってくる寂しさともつきあう生活を、もう3年以上も続けてきた。
日本でも、一人暮らしの人には、珍しいことではないだろうけれど…
ここは、音がしない。
静けさと孤独が心臓を絞りきる感じ
フィンランドで、特にわたしの住んでいるような郊外では、日本のように、耳をすませばどこかから生活音、雑音が聞こえてくるということがない。
夏の休暇中などは、車の騒音もなく、学生アパートから人の気配が消え、夜中、早朝には、うす青い空、しんとして動かない空気に、耳の痛くなるような静寂がやってくる。孤独の音。
うまく説明できないけれど、ふとした瞬間、動悸が早まり、何か叫びのようなものがせりあがって来て、寂しくてつらくて、焦って誰かに助けを求めてしまいそうになる。
そんなときわたしは、ひとりSMよろしく、この負の発作をかわさず、思い切り吸い込む。そして体のすみずみまで、痛みと焦燥をゆき渡らせ、ゆっくり吐き出す。その繰り返し。
人にすがってしまいそうな衝動は、そうするうちに消えていく。
人はどうして、孤独だ、寂しい、つらい、と感じるんだろう。
そもそも、孤独でいることは、悪いことなのだろうか。
私たちはみな、ひとりで生まれてきて、やがてひとりで死んでゆくのに。
つらさは、警告やしるしのようなもの
わたしには、孤独に耐えがたい辛さを感じるのは、『今、自分の超えるべきテーマがそこにある』からだ、と思えてならない。
ひとりでいることが、いつも必ず苦しみというわけではないから、人の数は要因ではない。
映画館はひとりで行く…という人も多いし、好きなことをしているとき、漫画を夢中で読んでいるとき、他人の存在はむしろ不要に感じるくらいだから、ひとり=寂しい がいつも当てはまるとは限らない。
孤独だ、つらい、と感じるのは、
たとえば、越えるべき試練があるとき。家族が寝静まった後、受験勉強のため、自分ひとりが必死で机に向かっていると、物理的には決してひとりではないのに、ひどい孤独感に襲われることがある。
ひとりで向き合うべきものがそこにあり、でも正面からぶつかるのが怖い。そんなときに感じる焦燥や不安を、孤独感と呼ぶんじゃないだろうか。
結局、逃げずにひとりきりで戦わなくてはならない、と痛いほどわかるから。
そして同様に、ひとは、壮絶な孤独の中でなければ、何かを生み出すことはできないのだろうと思う。
たとえば、文章を書くこと。音楽を作ること、絵を描くこと。
世界から自分を切り離して、内面の底の底まで深くまでもぐりこみ、気が遠くなるほど自分と対話し続け、紡いでは破っての孤独な作業を、幾度も繰り返すことで、やっとひとつのものを創りだせる。
夏目漱石の 「草枕」 にあるけれど…
「生きづらさ」…痛みや孤独をより深く経験した人が、逃げるのをやめ、それでもこの世で生きていくために、ぎりぎりの状態で何かを生み出すのが芸術、創造ではないだろうか。
孤独に身を浸しきらなければ、成し遂げられないこと、創れないものがあるはずだ。
孤独は、私たちの人生に必要なエッセンス
孤独は必要だ。
それなのに、孤独がまるで悪いものであるかのように言われているのを、よく目にする。
「ぼっち」だ「一人飯」だ、友達がいない、恋人がいないだのと、からかいの種にされがちがけれど、ものはfacebookの友達の数や恋人の有無じゃない。
「友達がいない」「彼氏・彼女がいない」ことよりも、「ひとりを美しく過ごせない」ほうが、いきものとして問題だと思う。
友達と群れて、大勢でにぎやかに食事をするのも良いけれど、
たとえば、ひとりできちんと定食屋の椅子に座り、出てきた食事に「いただきます」と言い、見た目、香り、味、食べること、今この瞬間を全身で楽しんで、誰も見ていなくても「ごちそうさま」、お店の人に「美味しかったです」と言える人は、とても美しい。
そんなふうに「今」に全身全霊で集中できるのは、少なくともわたしには、ひとりでいるときのほうが多い。もしくは、チューニングの合う人と、感性を共有できる瞬間だけだ。
ひとりでいても、誰といても、”状況が何であれ「今」を丁寧に生きるということ”なのかもしれないけれど、美しく背筋を伸ばし、自立しているほど、孤独とうまく付き合っているような気がする。
人といるときよりもむしろ、ひとりでいるときのほうが本番で、「ひとりのときの生き方の質」がその人の人生を深めていく。自分の心の声を聴いて、自分と共に、生きること。負の衝動も、落ち着いて受け止めて、力にして。
だから、孤独を身に着けた人は、誇り高い。
人と幸せに関わり合うための下準備
わたしはまだまだ未熟もので、無力だけれど、こうして飽きもせず孤独とつきあっているのは、今ここで自分と向き合い、越えるべきを越えて、自分の大切な人と次に会うときに、恥ずかしくない自分でありたいからだ。
”あなたと会っていない間、つらいこともあったけれど、ここまで来ましたよ。あなたも、見ないうちに、ずいぶん進んだんですね。よし今日は思い切り楽しく過ごしましょう!美味しいものを食べながら、いっぱい話しましょう!”
こんな喜びを味わいながら、大切な人とお互いを高め合い、関わっていきたいと思うから、寂しいと感じるとき、わたしは深呼吸をする。今わたしには、自分で乗り越えるべきものがあるに違いないと。だからどんなにつらくて、逃げたくても、そうしないほうがいい。
人にすがらないで、今、戦おう。これはチャンスだからと。
人は、ひとりだ。
多くの人に支えられ、社会があってこそ存在できるけれど、同時に、人は自分の脳で知覚した、主観の世界に生きているから、”わたし” と ”だれか” の世界が同一になることは決してない。
60兆の細胞全て、わたしというものを活かすためだけに活動している。
わたしの人生は、わたしの足の上にあり、自分がそう望まない限り、どこへ行くこともできない。
たとえ溺れているときに、誰かがわたしに手を差し伸べても、心の底から、生きようと望み、その手を掴もうと動かない限り、助かることはない。
人の中にいて、絶対的な「個」を見失ってしまった人が、「自分探しの旅」で孤独な環境をつくり、自分というものの姿を確かめるように、ひとりになる、自分になることは、生きるために、なくてはならないことだ。
まず初めにひとりであることを認めて、ひとりで生き抜く意志があってこそ、誰にも依存することなく、尊重を持って人と付き合えるのだと思うから。
どこまでも自分であることに責任を持ってこそ、迷いなく、誰かに手を差し伸べられる人になれると思うから、
辛いことはあっても、わたしには、孤独は最強のともだちだと思える。
※次は、ぼっちプロおおばやしさんの「孤独とつきあう方法」… ちょっと変わった方法を紹介できたらと思います。
#エッセイ
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