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最高学歴な彼女 


僕はなぜ彼女とデートするのか。そんな疑問を頂きながら、南方医院前のイオンで彼女の到着を待っていた。

「もうすぐ着く」。

スマホの画面にそうメッセージが届いた。僕はもう一度Tinderを開いて彼女の写真を見た。

しかし改めてその写真を見ても、あまり納得出来ないことがあった。

自分はあまり異性の外見を重視する方ではない。とは言え、彼女のそれには退勤後で疲れた男を乗車率200%の地下鉄一号線に押し込め、家と反対方向の待ち合わせ場所に呼び出し、さらにディナーをご馳走したくなる。と言った魅力を感じなかった

「医学博士」。

唯一、彼女のプロフィールに書かれたこの言葉が僕の目に輝いて写っていた。

僕は元来、高学歴だとか、医者や弁護士だとか、社会的に認められている女性が好きだった。

彼女たちはきっと両親や恩師の愛と期待を一身に受けて育った。クラスやサークルの中で、いつも先頭に立ち、高校、大学、そして国家資格試験など、国が用意したあらゆる競争と選抜をくぐり抜けてきた。

僕は、そんな選ばれた女性から「選ばれる」ということに何か強い執着を感じていた。逆説的に自分自身も選ばれるということに喜びを感じていた。

「ついたよ、私は黒い服を着ている」。

そうWe chatのメッセージを受け取った僕は辺りを見渡した。イオン正門前は人もまばらで、待ち合わせをしていそうな人物も多くなかった。しかし、2度ほど見渡しても僕は彼女を発見出来ない。

そして三度目でようやく彼女の姿を見出すことが出来た。それほど、彼女は地味で薄ら黒いジャケットとジーンズを着ていた。

それはザラとかH&Mで、シーズンオフのクリアランスセール品として積み上げられていそうな冬服だった。

良く言えば流行を気にすることがない。かなり悪く言えば、何十億人という中肉中背のアジア系女性の中で、一定数いるファッションに無頓着な層のためカンボジアの工場で何万着と生産されたものの一つだった。

もしかすると僕の人生において、何人か同じ服を来た人とすれ違ったり、会話を交わしたりしたかもしれない。ただ、全く印象に残っていないのだ。

僕が手をふると、そんな彼女はこちらへ歩み寄って来た。

「こっちの方は初めて来るから少し迷っちゃったよ、はじめまして、寒くない?」。

僕はまず会話の口火を切った。何十億人と様々なアジア系女性がいると思うが、第一印象が肝心ということは共通しているだろう。僕はなるべく会話しやすい印象を与えようと心がけた。

「寒くないよ、さっき仕事終わって出てきたところだから、お腹すいたからどこかレストラン探そうか?」。

「職場は近いの、どの辺りなの?」

僕が聞き返すと彼女は、歩いて来た方を指差した。

「南方病院」。

それは僕の住む広州市、もとい中国華南地域の中核的な医療研究機関だった。

「じゃあ今手術が終わって出てきたの?ちゃんと手を洗った?」

僕がそう冗談めかして言うと、彼女は笑って答えた。

「私は研究医だから臨床はしないの。だから仕事の後、医療用アルコールで消毒してないけど安心して」。

ノリがイイじゃないか。そう、僕は思った。

この地球上にはアジア系のみならず何十億人という様々な人々がいる。ただ相手がどこの国でも、どんな宗教でも、初対面である程度話があい、お互いを尊重することが出来き、相手が自分の好みの性を有していれば、大体の場合、肉体関係を結ぶことが出来る。僕はこれまでの経験からそう判断している。

そして何より僕は、会って間もない彼女、その瞳の奥にある“寂しさ”に気がついていた。

#Day2

新疆ビルの2階、新疆ウイグル自治区政府直営のレストランで僕たちは再びデートした。ウイグルの陶器、ベッドやソファーなどが調度品として飾られ、ウイグルの民族衣装に身を包んだ中国人店員が料理を運んでくる。そんな趣向のレストランだった。

僕と彼女は羊のバター揚げを食べていた。カリカリに揚げられた羊の皮とバターの匂いが重なり合い、それはとても罪深い味がした。

「BBCが偏向報道をしたおかげで、世界の人々は新疆地区で起こっていること誤解している」。

というのが彼女の主張だった。

「僕は真実について何も知らない。ただ、中には中国の統治を受け入れたくない人がたくさんいて、そういう人たちが国外で活動しているのも事実じゃないかな」。

僕は新疆ウイグル自治区ウルムチ市特産のビールだが、なぜかこの広州市でよく飲まれている烏蘇ビール飲んでいた。少し強いアルコール度数が、僕たちにこの中国では人目をはばかられる議論をさせていた。

彼女はそれに真っ向から反論しなかった。ただ、西側諸国のアメリカ原住民に対する迫害の歴史などを取り上げ、お茶を濁していた。

彼女の論法は中国政府の主流意見のそれと同じだった。ただ、今の中国において外国人と進んで政治の話をするという点では、彼女は中国人大衆と異なっているような気がした。

「コロナの件もそうだけど、今の世界で中国が悪くないと思っているのは中国だけだよ」。

僕がそういうと彼女は再び「主流意見」を幾つか述べた。ただ、彼女は最後にこう付け加えた。

「だけど、世界中が敵になったら中国はきっと勝てないと思う…」。

そう言う彼女の手を、僕は冗談めかしながら握りしめて言った。

「もし世界中が敵になっても、僕は君を守るよ」。

それに彼女は笑っていた。

手とは、人が最初に他人に差し出す体の一部である。人は相手を受け入れる時や相手を支配する時、まずはじめに手を握る。

僕たちは会計を済ませ、そのまま夜の広州市中心、花城公園を歩いていた。彼女の手はすでに僕の手中にあった。

「やれる!」。

僕の胸はその確信に満ちていた。

心と身体は繋がっている。手を繋ぐという行為は、相手の心と身体を手に入れるために超えなければならない絶対防衛ラインなのである。そして今、その彼女の手は僕の手中にある。

僕は彼女の手を引きながら、まるでノルマンディー上陸を果たしたアメリカ兵のように意気揚々と歩いていた。

「中山大学附属病院」。
 
この広東省でもっとも偏差値の高い大学の医学部附属病院の看板が見えた。

「わぁ、中山大学だって?すごいなぁ。君も中山大学出身なの?」。

僕はパリ奪還を果たしたアメリカ兵がパリジェンヌに使った様な、おどけた口調で彼女に問うた。

すると彼女は笑った。

「知ってる?私は北京大学医学部卒業なのよ」。

僕は、僕の彼女と繋がれた右手が一瞬で汗ばむのを感じた。

「全、中、華、最、高、学、位」。

親の愛、恩師の期待、それらを一身に受け育ち、様々な試験をくぐり抜け、国家の選別において、全中華14億人中最も高いグレードを与えられた女性。

そんな自分がこれまで追い求めてきたこの「7つの漢字」がとうとう目の前に揃ったのだ。僕はこのことを頭で理解した。その瞬間、地殻が割れ、マグマが吹き出すかのように明確な目的意識が僕を満たした。

「この女を抱かなければならない」。

抱く、必ず抱く。一見、地味で魅力的だとは言い難い彼女だ。しかしこの地味な衣服の下に、全中華最高度の金含有量を誇る卒業証書付きの肉体があるのだ。

「抱く、必ず抱く」。

そのために、この手を離してはならない。僕は強く念じた。しかし、汗ばむ右手により彼女に不快感を与えてはならない。

そこで僕は繋いでいない方の左拳を強く握りしめた。するとまるで熱開放弁が開かれたかのように、僕のなかで滞留するマグマの如き熱血が左側へと流れだした。

抱く、必ず抱く。

彼女の反対側で握られる拳のなかで、僕は確かな血の滾りを感じていた。

#Day3

僕は中卒のフリーターだった。ということを仕事の休憩中にふと思い出していた。

僕は高校2年生の春に学校を退学した。それからしばらく家で何もせず過ごしていた。しかし、なんとなく居心地の悪さを感じたため、フルタイムのアルバイトを始めた。

それは郵便配達の仕事だった。それから一年ほど、雨の日も、雪の日も郵便局員として働いた。

ある日、僕がいつものように郵便局員の制服を着て、赤いカブに跨り配達をしていた時だった。僕が退学した高校で同じクラスだった男が彼女らしき女の子と手を繋ぎ歩いていた。

冬が終わり、ようやく春の陽気を感じられる季節。下校時間の彼らは高校生らしい青春の日々を過ごしているように見えた。それを見た僕は、思わず嗚咽が出るほどの悔しさと涙がこみ上げてきた。

こんな自分の姿を見られてはならない。

僕はすぐさますぐカブに跨り、近くの公園へと逃げ出した。そこで泣いた。おうおうと、声をあげて泣いた。

どうして自分はあそこにいないのだ。彼は僕が欲しかったモノすべてを持っているように見えた。僕は手で涙をふいた。涙を拭う手は毎日何千枚と手紙を仕分けしているので、手紙に油を吸い取られ、切れて、ガサガサだった。

カブのサイドミラーに映る僕は薄汚れた郵便局のヘルメットを被っていた。その顔は一年間もの外仕事の結果、黒く、肌は荒れて、涙で歪んで見えた。

「このままでは、俺は一生女を手に入れる事ができないかも知れない。」

その時だった。本能的な恐怖心が僕の中に芽生えた。

女が欲しい。女が欲しい。女を得るためには、今の立場を変えなければならない。17歳の僕は、そう強く決意した。女を得るために、今の立場を変える。そのために大学に行こう、と。

あれから10数年がたった。田舎の郵便局員だった僕は今ある日系企業の海外支店で働いている。ふと過去のことを思い出した。冬という季節のせいか、寒かった当時のことをよく思い出す。

「鸭血粉丝(ヤーシュエフェンスー、鴨の血のゼリーが入った春雨スープ)が食べたい」。

なにか温かい物が食べたい。そう思い僕は彼女にメッセージを送った。鸭血粉丝はこの国ではよく食べられる麺料理だ。ただ、僕も彼女もこの街に来たばかりで、どこのレストランへ行けば美味しい鸭血粉丝が食べられるか知らなかった。

「じゃあ、私の家でデリバリーのやつ頼む?」

彼女がそう言うので、退勤後僕は図らずしも彼女の家に行くことになった。

彼女は職場である南方病院からほど近いワンルームマンションに住んでいた。リビングとキッチンは一体になっていて、ベッドルームとリビングの間は引き戸で区切られていた。リビングには長方形の仕事机とその上に腎臓の専門書と、PCモニターが2台おいてあった。

「これでデータ分析をしないといけないの」。

とだけ、彼女はそれらについて説明していた。

その部屋は彼女のファッションと同じく、とても簡素で地味な印象だった。ただ、壁にはいくつか絵が飾られていた。彼女自身が描いたものらしい。それはいくつかの有名な海外の模写と野鳥の絵だった。自作の絵から、彼女の内面が垣間見えているような気がした。

「ご注文の品が届きました。デリバリーロッカーに保管されているので取りに来てください。パスワードは〇〇〇〇」。

とのショートメッセージが届いた。僕たちはマンションの一階に行き、デリバリーを受け取った。

鸭血粉丝は鴨血で作ったゼラチン状の固形物を入れた春雨スープだ。スープの中には赤黒い鴨血の塊が浮いている。
 
彼女はキッチンで他のメニューの準備をしていた。僕はその間、春雨スープに浮かぶこの血の塊を見ていた。
 
「血とは魂の通貨である」。その言葉が僕の頭のなかで渦巻いていた。



 
ふとキッチンに立つ彼女を見た。その姿は太っているとは言えない。しかし痩せているとも言い難い。どちらかと言うと、太っている。
 
しかし、僕が求めているのは見た目ではない。見た目の良い女性から得られるような、一過性の喜びではない。
 
僕は彼女の尻を見た。僕が求めている有名大学の卒業証書を授与されたあのケツなのだ。社会から、国家から認められたケツに、オスとして受け入れられる。僕が求めているのはそんな、オスとしての血の承認なのだ。
 
彼女は簡単な野菜炒めを作り、テーブルへ運んできた。そして英文で書かれた腎臓の専門書をどかして、それを置いた。
 
「俺がいなければ、いつもこれをオカズに食事してるの?」。



 
と僕が肝臓の専門書を指して聞くと、「あなたは仕事の本を読みながら食事が出来る?」、と至極真っ当な返事が返って来た。
 
僕たちは長机に並び、食事をとった。僕はスープに浮かぶ鴨の血の塊を、一つ、また一つと口に運んだ。
 
食事を終えると、彼女は徐にPCモニターをつけ、Bili Biliを流した。それは「今年度最もヒドイ映画10選」。と銘打たれた動画だった。仕事のあった平日の食事終わりに見るには丁度よい内容だと僕は思った。僕がソファーに座ると、彼女は長机の仕事椅子に腰をかけた。
 
「唐時代のドラマなのに、全員辮髪!」。


 
と動画のナレーションがツッコミを入れている。彼女はそれをケラケラ笑っている。学歴が高いが、笑いのツボは浅いのか。この時僕は彼女を分析することに集中していた。それはまるで獲物に飛びかかる機会を伺う肉食獣のようだった。
 
お茶飲む?と彼女が徐に振り返り、聞いてきた。僕は、より多くの色彩、そして情報を取り込むため開かれた瞳孔を閉じ、「いいね」。と答えた。
 
彼女がお茶の煎れるとそれをソファーの前のテーブルに置いた。そして彼女もソファーに腰をかけた。僕の眼前に一瞬、二次大戦におけるベルリン市街戦の光景が現れた。想像のなかで僕は一人の赤軍兵士の青年だった。手には泥まみれのソビエト国旗が握られている。
 
そして現代、広州市の郊外にいる僕は、隣にいる彼女と手を繋いだ次のデートで、家にお邪魔し、今同じソファーに座っている。
 
「議会前大通りの占拠が完了しました!!」。
 
その伝令を受け取った時将校が突撃指令を下した。将校の怒号を背に、再びソビエト国旗を強く握りしめ、ドイツ帝国議会議事堂を見上げた赤軍青年と僕の姿が重なった。最後の時は近い。


 
僕はゆっくりと、そして急に彼女に抱きついていた。
 
ここからである。彼女がどういう反応をするか、見極め次の一手を打つ。僕の行為そのものは衝動的だった。しかし僕は非常に冷めた頭で彼女を観察していた。
 
どんな反応をするか、どんな言葉を吐くか、筋肉は強張ってないか。僕は自分の手を、まるで検査器具のように彼女の全身に這わせた。
 
そして、どうやら彼女はそれを受け入れているのではないかと診断を下した。僕は彼女にキスをした。
 
「八路軍兵士が日本軍のことを『皇軍』と呼んでいる?!」。
 
ヒドイ映画10選では第4番目の作品紹介を行っている。
 
「ああ、ちょっと早いよ」。
 
彼女はそう言いつつも、拒絶反応を見せなかった。ユーラシア大陸の女性は、嫌な時は嫌と言うので、嫌と言うところまで押して見る。これは僕がユーラシア大陸の様々な国を巡り見つけた法則の一つだった。
 
「時間は問題ではない」。
 
早いと言われれば、こう言っておけば誤魔化すことが出来る。これもユーラシア大陸の文化である。僕はそう言いながら、PCモニターに映る中国映画の日本兵の真似をし、彼女を担ぎ上げた。

「私達って、なんだか寂しすぎよね」。彼女はそう独り言のようにこぼしていた。僕はそれに答えなかった。というより、もう答える意味を見いだせなかった。
 
そしてベッドへ移動すると、彼女の服をまじまじと見た。そしてある事に気づいた。なんと脱がしやすいデザインなのだろうか。


 
彼女が身に纏っている、全てのアジア系女性のためにデザインされた地味な服は、また僕を含む全てのアジア系男性にとっても、大変フレンドリーな設計だった。脱着の際、地味であるが故に複雑なギミックがない。またすこし乱暴に扱ったところでよく伸びる。
 
僕はそれを、なんの説明もうけること無く直感的に脱がすことが出来た。きっと生前のジョブズもこういう服を着ていたのだろう。すでに上半身が顕になった彼女と在りし日のスティーブ・ジョブズが重なりかけた時、ふと彼女の反応を確かめた。
 
彼女はすでに全てを受け入れるつもりのようだった。
 
例え全中華最高学府を卒業したところで、彼女も所詮僕と同じく、鴨の血に興奮した一匹の肉食獣に過ぎないのだ。



 
僕は自身の服を脱ぎ捨て、内心そう彼女を見下した。そして上に跨り、そっと彼女の肌に触れた時だった。
 
「痛っ!!」
 
なぜか僕が痛みを感じた。僕の手にひりつくような痛みが走った。突然のことだった。僕は驚き自身の手を見た。すると、怪我をした記憶はないのだが、僕の手は赤く、皮が裂けていた。
 
この時だった。僕は全身を包む異変に気づいた。すでに服を脱いだはずの自分が何かに包まれている。その赤く傷んだ手で、身体を確かめた。すると裸だったはずの僕はゴワゴワとした、厚手の外套のような物で覆われていた。
 
ふいに頭を触った。頭は硬質でつば付きの帽子のようなモノに覆われている。これは何が起こっているのだ。僕はふと窓ガラスの方を見た。



 
僕の姿が、ベッドライトのみで照らされた彼女の部屋の窓に映っていた。僕は田舎の郵便局員の姿をしていた。
 
それは厚手のコートを着た、冬期作業服の姿だった。「JP郵便局〇〇町局」、ヘルメットにはそう、日焼けした文字でプリントされている。
 
なぜ僕はこんな格好、中卒のフリーターだった時の姿になっているのか。僕は驚愕した。また恐怖すら覚えた。
 
なにより、こんな姿を、こんな姿を最高学歴の彼女に見られてはまずい。きっと僕の社会的立場の低さを軽蔑し、蔑み、僕の本当の姿を知って、僕を拒んでしまうだろう。せっかくここまで来たにも関わらず。
 
僕は急ぎ郵便配達の作業着を取り払おうとした。10数年前、こんな姿とっくに脱ぎ捨てたはずだ。今の僕は日本でそれなりの有名な大学を卒業し、有名企業に就職した。そして今では押しも押されぬ海外駐在員なのだ。部下もいるし責任もある。
 
中卒という社会の底辺を嘆き、公園で惨めにおうおうと嗚咽を漏らしていたあの頃の自分ではない。
 
しかし、僕がそれを取り払おうと外套のファスナーを下げても、ヘルメットの紐を解いても、それは僕の身体に纏わりつき離れない。



 
「どうしたの?」。
 
彼女が取り乱している僕を不審に思い問うてきた。
 
僕はふと我に帰り、彼女に何でもないと答えた。すると彼女は僕にしがみつくように抱きついた。彼女は何も言わなかった。彼女の手は、僕が纏う冬期作業服上から僕を強く抱きしめている。彼女にこの姿が見えていないのだろうか。それとも、彼女は僕がなんであれ受け入れくれるのだろか。
 
この時、僕は思った。いずれにせよ、僕はやらなければならない。自分が如何なる立場の人間であろうが、この世に生まれた以上、何としてでも自分の血の価値を証明しなければならない。この女に認めさせてやらなければならない。



 
####
 
全てが終わった時、彼女はいまだ息荒く僕の上に跨っていた。
 
「ちょっと痛かったけど、、」。
 
と彼女がそう言いながら僕の上からどくと、「ひゃぁっ」、と小さな悲鳴を上げた。僕も驚いて様子を見ると、僕たちが交わったベッドシーツの上には、まるで野ネズミを一匹、叩き潰した程の血痕が拡がっていた。



 
「まさか、初めてだったの?」。僕がそう聞くと、「いや違う、多分、、久しぶりだったから」。と彼女は答えた。
 
「凝固する前なら落とせる」。
 
と彼女はすぐそのシーツを剥がし、洗面台へと運んだ。しかしベッドマットレスには、すでに血が染み込んでいた。
 
「血とは魂の通貨である」。
 
僕の血は、この彼女が垂らした血の血判を持って承認されたのだ。僕は感慨深くその血痕を見つめていた。
 
戻ってきた彼女は、そのマットレスの状況を見てため息をついた。
 
「あなたが乱暴するから…」。
 
と言う彼女を僕は抱き寄せた。彼女も僕を強く抱きしめていた。しばらく抱き合いながら、僕は彼女の頭の後ろで今後について考えていた。



今僕に抱きついているような、あまり男慣れしていないタイプの女性を自分に深入りさせてしまわない方がいい。なんせ僕には他の彼女がいる。あの彼女も彼女で立派な仕事をしているし、なんせ美人だ。なにかこの関係をうまくフェードアウトする方法はないものか。
 
僕は冷静になった頭で、親切心からそう考えた。そこで一つこのようなことを伝えた。
 
「好きだよ、だけど前にも言ったように、僕はいつか日本に帰らなくちゃいけないんだ。だから、本当はこんな関係つくったらだめなんだけど…」。

“日本に帰る”

僕は咄嗟にこの関係の「出口」を作った。今目の間にいる彼女はそれを聞くや否や僕をまた強く抱きしめた。

僕は中卒の郵便局員だった。しかし今やまるで、外交官のような口ぶりで彼女を欺いている。

こうなれたのも僕が頑張って勉強して、大学に入って、有名企業に入社し、これまで努力してきた成果なのだ。やはり人間、どんな境遇でも諦めず努力することが重要なのだ。

その時ほど、大学に進学してよかったな、勉強してよかったなと、心からそう思ったことはない。さぁ早く帰って、ビジネス書の続きを読もう。



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