映画「怪物」について考えていることの殴り書き

映画「怪物」を見る前に知っていたことは、制作陣は”クィア映画”だとしていないらしい、ということだった。

鑑賞後の私は「クィア映画にしてほしかった」と思った。
エンドロールは苦しくて、涙が止まらなくて、顔をあげられなかった。

映画という芸術として、演技も絵も音楽も素敵であったことは間違いない。
お勧めすることはなくても、観たいという人を止めることも絶対にない。
そんな映画だった。

正直、今の段階では映画「怪物」をクィア映画だと思う私も、クィア映画ではないと思う私もいる。
クィア映画と呼ぶには社会への批判的なメッセージがぼやけて届いてしまっている気がする。
でも、クィア映画としての一面も絶対に持っている。当事者がマイクロアグレッションを感じていることがうまく表現されていた。ラストのシーンは「なんでこんな終わり方なの」と辛くなると同時に、「絶対に現実社会で、こんなラストシーンを生んではいけない」と強く思った。

でも、「ネタバレになるから」とクィアのことを伏せておくことは、マジョリティの特権を振りかざした行為じゃないかな。そういう意味でも”マジョリティに向けた”映画だと思う。
その暴力性に気付かないで、「演技はすごかったし、絵は綺麗だったけど、よくわからなかったね」と感想が聞こえる劇場は、あまりにも居心地が悪かった。

あと、プロモーションの「怪物だーれだ」という言葉が耳に残っているから、怪物を探してしまうのが、クィアをテーマとしてみることの障壁となっているのかなと思った。”誰しもが怪物になりうる”というメッセージが、よりくんとみなとくんにとっての、”大人や社会”という怪物の責任を軽くしている気がする。ここが、私の「怪物」が”クィア映画になりきれていない”と感じるところ。

私は、まだ性自認がはっきりしていないんだけど、そのジェンダーの存在を知ったのも2年前くらい。
それまではずっと「普通」だと思ってた。というより、ずっと「普通」でありたかったんだと思う。
ジェンダーというカテゴリーを知って、自分をカテゴライズすることで得られた安心感は間違いなくあった。今でも、その言葉に救われている。
でも、同時に「普通じゃない」ということを思い知らされた辛さもある。今もまだ消化している途中で、どこかでマイノリティなのは気のせいなんじゃないかと思うこともある。

これが、よりくんが自分のことを「怪物」だと思っていること。
そして、みなとくんがよりくんと同じということで、自分は「怪物」だと思うことにリンクしちゃって、泣いている。
私が辛いから、私が辛いことを、二人の少年も味わってるのがすごくいやで、泣いちゃって、全然考えられない。

あんな形じゃなくて、幸せになってほしかった。
じゃないと私が救われない。
全然救ってくれなかった。


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