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自分の容姿が大嫌いなあなたへ。

私は昔から、自分の容姿が嫌いだった。厚ぼったい一重の目、いつも荒れていて赤みの消えない肌、ぽっこり出たお腹。もっとこうだったら、と思う所をあげればキリがない。

それでもどうにか生きていかなくちゃならないなら、楽しく生きたい。私なりに試行錯誤し、ようやく現時点での最適解と思える価値観を見つけたので共有したい。今もまだルッキズムの呪いからは逃げきれていないが、確実に昔よりも生きるのが楽になったなと感じている。

今まさに自分の容姿に苦しんでいるあなたへ、そして泣いている昔の私へ、少しでも寄り添えたらと願ってこの記事を書く。

一重は「良くないもの」と知った日

「Aちゃんが、毎日アイプチして本当の二重になったんだって!」

小学三年生のとき、そんな噂話が回ってきた。この話を聞いたときのことを、十数年経った今でも鮮明に覚えている。

自分が一重であること自体は知っていた。だが、私にとってそれは、ただの特徴の一つでしかなかった。だから、二重に変えるという行為にカルチャーショックにも似た衝撃を覚えた。そのころの私は、顔が可愛いかどうかということを深く考えずに生きていた。パーツそれ自体が美しいかどうかなどという発想がないのは、言うまでもない。

加えて、行為そのものへの驚きと同時に、私のこの目は二重にしたほうがいいものなんだと知った。修正するグッズが売られているほどなんだと。

これが、自らの生まれ持った容姿をネガティブに捉えた最初の出来事だった。

私は、可愛くない側の人間だ

生まれ持った見た目に善し悪しがあることを知り、私は静かに自分のランクを理解していった。

同級生たちの恋愛トピックの内側に自分がいないこと、皆がしてるメイクが似合わないこと、男子の態度が自分とあの子に対してでは少し違うこと。
そういう日常の中で、自分が「可愛い」側の人間ではないと認識していった。

その認識を決定的にしたのは、母の影響が大きい。私の母は、他人の容姿に容赦なく口を出す人だった。女性アイドルが映れば「この人どこが可愛いの?」と顔をしかめ、大御所俳優が喋れば「うわ、若作りしすぎ。痛々しくて見てらんない」と吐き捨てた。

中学生頃から、私の見た目にもあれこれ言うようになった。三日に一回くらいは「肌荒れすごいよ」と言われていたし、何の前触れもなくいきなり「あんた最近明らかに太ってきてるね」と笑われた。母に見た目を指摘された時はいつも、傷ついた心を見ないふりしてやり過ごした。

覚えている中で一番辛かったのは、彼氏ができたことを報告した時だ。母は、「あんたは美人じゃないから、その彼氏は逃さないようにしないとね」と言った。流石にこの時は悲しくて堪えきれず、自室に戻ってから一人で泣いた。

一方で母は、弟の容姿はいつも嬉しそうに誉めた。弟への褒め言葉を聞くたび、彼と違って誉めるところのない容姿を持っていることを痛感させられた。

容姿って、どうでもいいことなのかも?

変わるきっかけは、大学生の時に出会った友人の存在だった。その人は、他人の容姿を全然気にしなかった。誰かの生まれ持った容姿を蔑むことはもちろん、誉めることもしない。とにかく何も言わないのだ。

評価も言葉にしない友人の態度は、容姿に悩み疲れた私にとって救いだった。どんなに肌が荒れていても、食べ過ぎで太ってしまっても、この人の前では怯えなくていい。それは、すごく嬉しいことだった。

だから私も、評価しない生き方を実践してみることにした。例えば鏡を見て、「目が小さいなぁ」と思っても、ただ思うだけで終わりにしておくのだ。それを「醜い」と評価しないこと。こうした意識づけを続けていくうちに、心が楽でヘルシーな方向へ進むのを感じた。

次第に、誰に対しても自然とそのスタンスでいられるようになった。それまでは、自分が言われて辛くなったようなことを、目の前にいる人に対しては平気で思えてしまっていた。

こうして私は、容姿というものをだんだんとフラットに考えることができるようになっていった。執着がなくなってきたとも言えるかもしれない。
(ちなみにTwitter(X)をやめたことも一要因と思っているが、これは機会があったら別で書きたい。)

ルッキズムという呪いから一抜けしたい

自分の容姿が嫌いな人は、嫌い続けることに疲れている人でもあるんじゃないかと思う。少なくとも、かつての私はそうだった。

私は、「ありのままを好きになろう」「みんな違ってみんな美しい」なんて綺麗事だと思っている。好きになれないから苦しいのだし、なれたとて何かの拍子に嫌いに逆戻りする可能性は常にある。みんなそれぞれ美しいと言うわりに、社会が提示するのは依然として画一的な基準ばかりだ。

社会は簡単に変わらない。好き、嫌い、良い、悪い、美しい、醜い。社会はこれからもずっと私たちを評価し続ける。

ならばこちらから、社会が決めた基準全てを放棄してやるのはどうだろうか。そんなもの私にはもういらないと宣言することは、難しいし大変だ。けれど、出来ないことではない。

とはいえ私も、自分の見た目が嫌で泣く夜はいまだにある。それでも、それなりに楽しくやってるよ〜と昔の私に言えるくらいにはなった。

もしこれを読んでくれているあなたが、「私も評価される舞台から降りてみようかな?」と少しでも思ってくれたなら、私は嬉しい。

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