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コロナと学校⑭ みんなの学校が教えてくれたこと1

このnoteは、小屋野恵のWEBサイト「アラカンどうでしょう」の過去記事からピックアップ&転載するものです。基本的に表現は当時のままなので、その点お気をつけください。

2020-07-09oyanomegumi

先週からちょっと気持ちが落ち込んでいる間、
届いた本を読んで元気をもらっていました。

一冊目は「みんなの学校が教えてくれたこと」

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「みんなの学校」全4巻中の1巻 となっています。

読んでいて思うのは、やはり木村先生はまっとうな人だなあということ。
そして、学校ってこの「まっとう」が通じにくい場所
なんだなぁということ。

私は教育大学に学んだので、
自分が子育て生活に入ったとき、
周囲に障害を持つお子さんが見当たらないことを
本当に不思議に思いました。

数字、確率から言えば、
一定数の障害を持つ赤ちゃんが生まれているはずなのに、
公園でも、児童館でも、ほとんど出会わない。
なんでだろう?

一つには、その障害のために、気楽に外に出ることができないから。
もう一つには、電車や車で「療育センター」というところに通っているから。

なんか変だなあ。
「健常児」と呼ばれる子は、公園で群れて育つのに、
障害がある子は、発達を促すため、
療育センターで育つの? それって大事?

もちろん、早期発見、早期療育が大切だということは理解しています。
でも、そのまま特別支援学校に入り、
バスで通学しはじめちゃったら、もう、地域の子と接触するチャンスを
失ってしまうんじゃないか?

時まさに公園デビューというおどろおどろしいワードが出始めた頃。
「健常」と言われる子だって、その子の親だって、
初めて近所の公園に出かけるところで失敗したら、
その地域ではやっていけない。
公園を牛耳るママボスに気に入られるとか、
力を持ってるママ仲間に入れるかどうかとか、
若いママがそんなことに汲々としていた頃でした。

※2021/6/15 追記 上記のようなことは確かにあったし、今もあります。
ただ、すべてじゃない。私の周りにはありませんでした。
そして、そういう「ちょっと困った人(たち)」は、次第に淘汰されていく。
敬遠されていく、逆に孤立していく。
それに気づいて、軌道修正する人もいます。
公園デビューのその場面を切り取れば、ショックも大きいだろうし、
心も傷つくかもしれないけど、
そういうところには近寄らなくても、子育てはできます。

そこに、障害を持つ親子が入り込む余地はなかったんだろうなぁ。

今になってインクルージブとか言うけど、
ふだんの生活の中、当たり前の風景の中に、
障害を持つ子が普通にいなかったのに、
急に「インクルージブ」とか言われても困るよね。

この「みんなの学校」は、本当に「みんな」だなあと思わされました。

先生、児童、学校職員にプラスして、地域の人もしっかり入り込んでくる。

正直、学校運営上めんどくさいことは一杯あると思います。
でも、そこをあえて開いていく。開いていくから入り込むことができる。

障害のある子どもを「どうやって断るか」じゃなくて、
「どうやって受け入れるか」を真剣に考えてくれる場所があるだけで、
保護者は救われるんじゃないだろうか?

障害のある人を助けましょう
障害のある人にやさしくしましょう

じゃなくて、
ふだんの風景の中にあたりまえにいる仲間の一人として、
不便は助ける、でも、自分も助けてもらえる時がある。
そういう経験の積み重ねが「インクルージブ」じゃないんだろうか?

ここでも勘違いの「平等」があって、
障害があっても、全部同じ事ができるようにしないといけない、って
勝手な思い込みはないだろうか?

できないところを「できない」と受け入れて、
じゃあどうするか? を考えることだって、
平等のはじまりじゃないんだろうか?

「みんなおんなじ」が平等じゃないって、
ちゃんと理解しないとだめなんじゃないか。

この学校で過ごせた子と、そうじゃない子の間にこそ、
不平等があるんじゃないか?

明日も、もう少し感じたことを書きます。

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