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活字に飢えた終戦直後の人々

出版業は終戦後の日本で最初に復活した産業のひとつである。信じられないかもしれないが、食料に飢えていた人々が、同時に活字にも飢えていたのである。1947年7月、東京・神田の岩波書店の外で痩せこけた200人もの人々が3日間寝泊まりして発売を待ったのは、食料でも水でもなく、哲学者・西田幾多郎の全集であった。出版社は終戦時の約300社から、1948年には4600社に増えていた。終戦から4年間の間に発行された雑誌は、占領軍に検閲を経たものだけでも約1万3000誌に上った。

それらのうち少なくとも100誌以上のタイトルに「新」とか「新しい」とか「ニュー」といった言葉が躍った。「新しい時代」「新しい文化」「新しい民主主義」「新しい教育」「新しい地理」「新しい歴史」「新しい希望」「新しい労働」「新しい生活」「新しい映画」「新しい会社員」「新しい学校」「新しい詩」「新しいスポーツ」「新しい道」「新しい女性」「新しい世界」「新生民主仏教」「新しい文学」「新しい俳句」「新しい結婚」「新しい自治」「新しい世紀」「新しい自由」「新しい自由人」「新しい社会」「新しい科学」「新しい農民」「新しい若者」「新しい警察」「新しい家族」「新しい美容」といった具合である。
実は「新しい日本」という主張は明治維「新」から脈々と続いていたのだが、今度こそ日本は新しい国家を建設し、世界の秩序の中で新しい地位を占めるべく探求しなければならないという相当の覚悟が日本人にはあった。そして「臣民」としてではなく主権者たる「国民」として、どんな道を歩むべきかを考えることに希望を見出した。終戦直後の絶望を乗り越えるためにも、活字は必要だったのである。

終戦直後の出版物の主役は「カストリ雑誌」だった。粗雑な材料のためたった3合で酩酊するカストリ焼酎にちなみ、粗雑な紙で作られ、3号で廃刊してしまうことから名づけられた「カストリ雑誌」は、エロ・グロで占められ、娼婦や闇市の男とともに退廃の象徴だった。
カストリ雑誌に取って代わったのが、1949年創刊の雑誌「夫婦生活」だといわれる。
夫婦の性についておおっぴらに解説したこの雑誌の創刊号は初刷7万部、2刷2万部もあっという間に売り切れた。確かに性技を解説する「夫婦生活」は十分にエロティックだったが、逃避を目的とするカストリ雑誌とは違って、夫婦が健全な肉体関係を結ぶべきだと主張する点で建設的だった。「夫婦生活」はしばらくして堕落してしまったが、「夫婦日記」「モダン夫婦生活」「夫婦世界」「新夫婦」「夫婦の部屋」「夫婦の性典」「完全なる夫婦生活の友』『愛情生活』『ロマンス生活』といった性の民主主義のジャンルが確立した。
雑誌と同様に単行本も、すでに虚脱の形跡はない。1946年のベストセラー10冊は、夏目漱石、森正蔵、永井荷風、河上馨、三木清、尾崎英実、サルトル、ジッド、レマルク、V.D.ヴェルデの著作であり、ヴェルデの『完全なる結婚』を除けば、もう日本では2度とないくらいの真面目なラインアップである。漱石以外はいずれも翻訳本か、戦時下の検閲に引っかかった発禁本か、死後に評価された作家たちによる本である。漱石も、個人主義の文脈から再評価された。
言葉の洪水が、終戦直後にもあった。しかしそこには新しい時代への渇望が見て取れるのである。

参考文献 

ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』

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