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村上春樹『風の歌を聴け』の冒頭がフィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』に似ている件

村上春樹は好きな作家を3人挙げろと言われればトルーマン・カポーティ、レイモンド・チャンドラー、スコット・フィッツジェラルドだとすぐに名前が挙げられるといっているが、とりわけフィッツジェラルドへの思い入れは尋常ではなく、21歳の時に『夜はやさし』を読んで以来、むさぼるようにフィッツジェラルドの作品を読んだという。「冬の夢」「バビロン再訪」に関しては20回以上読み返し、作品をいくつかの部分に分解し、「虫眼鏡で覗くように」その文章の魅力の秘訣を暴こうと研究したそうである。

だから、村上春樹は、ジャズバーの店主だった村上が29歳のころ、神宮球場で外野フライが上がった瞬間に「小説を書こう」と決意し、店が終わった後の台所でペンを取ったとき、フィッツジェラルドからスタートした。私はそう思う。
処女作『風の歌を聴け』の冒頭が『グレート・ギャツビー』非常に似ているのである。

フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』の冒頭

僕がまだ若くて今よりもっと傷つきやすかったころ、父がいくつかの忠告をくれたのだが、僕は以来ずっと、その忠告を心の中で繰り返してきた。
「人を批判したいような気分になったらな」と父は言うのである。「ただ思い出してみるのだよ、みんながみんな、お前のように恵まれてきたわけじゃないってことを」。
父はこれ以上何も言わなかったが、僕らはいわずとも分かり合えることに関しては並みじゃなかったから、父が言ったことにはもっと大きな意味があるって事ぐらい、僕にはわかっていた。おかげで僕は人をなんでも決め付けてかからないという性格になったわけだけれど、その性格のおかげで、いろんな変わった人間にお目にかかりもし、退屈この上ない連中の話し相手になる羽目にもおちいった。凡人である僕にそんな性格が顕れたとたん、非凡なる連中はすぐにでもそれと見抜いて僕に愛着を持ったものだが、粗暴なやつも得体の知らないやつもうちうちに僕に辛い思いを打ち明けてくるということを理由に、大学時代はなかなかの策士だと、あらぬ非難を受けたりもした。だけどそんな信頼の多くは僕から求めたわけじゃなくて、ちらっとでも相手の親愛の情がはっきりと分かったときは、僕は眠ったふりをしたり、空想にふけるふりをしたり、わざとそわそわするふりをしたものだった。若い人の親愛の情とかなんとかってたいてい、人の言葉を借りてみたり、明らかに抑圧されてひんまがったりするものだ。決め付けてかからないってことは無限の希望を生むことになる。父がしたり顔で言ったことを僕はまたしたり顔で繰り返すわけだけれど、僕は今でも自分が、基本的な礼儀すらもみんながみんな生まれつきに持っているわけじゃないってことを忘れてしまうのではないかと、ちょっと心配になっている。
こうやって僕の寛容さのコツを自慢したわけだが、しかしそれにも限界があるってことを、僕は認めざるをえない。人間の行動は固い岩のような心によってもぐちゃぐちゃした湿地のような心によってもおこされえるのだが、ある一定のラインを超えたら、僕はいったい人間の行動が何によっておこされたのかなんて、考えてはいられなくなるからだ。
(光山忠良訳)

村上春樹『風の歌を聴け』の冒頭

「完璧な文章などいったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね」
僕が大学生のころ偶然に知り合ったある作家は僕に向かってそう言った。僕がその本当の意味を理解できたのはずっと後のことだったが、少なくともそれをある種の慰めとしてとることも可能であった。完璧な文章なんて存在しない、と。
しかし、それでもやはり何かを書くという段になると、いつも絶望的な気分に襲われることになった。僕に書くことのできる領域はあまりにも限られたものだったからだ。例えば象について何かが書けたとしても、象使いについては何も書けないかもしれない。そういうことだ。
8年間、僕はそうしたジレンマを抱き続けた。8年間。長い歳月だ。
もちろん、あらゆるものから何かを学び取ろうとする姿勢を持ち続ける限り、年老いることはそれほど苦痛ではない。これは一般論だ。
20歳を少し過ぎたばかりの頃からずっと、僕はそういった生き方を取ろうと努めてきた。おかげで他人から何度となく手痛い打撃を受け、欺かれ、誤解され、また同時に不思議な体験もした。様々な人間がやってきて僕に語りかけ、まるで橋をわたるように音を立てて僕の上を通り過ぎ、そして二度とは戻ってこなかった。僕はそのあいだじっと口を閉ざし、何も語らなかった。そんな風にして僕は20代最後の年を迎えた。


『ギャツビー』では父がアドヴァイスをするのだが、『風』では「ある作家」がアドヴァイスをする。アドヴァイスを慰めととらえているのも『ギャツビー』と同じ。アドヴァイスによる信念にも限度があるというのも「書くことのできる領域はあまりにも限られている」といった「僕」と同じ。村上の「おかげで他人から何度となく手痛い打撃を受け、欺かれ、誤解され、また同時に不思議な体験もした」はフィッツジェラルドの「その性格のおかげで、いろんな変わった人間にお目にかかりもし、退屈この上ない連中の話し相手になる羽目にもおちいった」と似かよりすぎている。村上の「僕はそのあいだじっと口を閉ざし、何も語らなかった。」はフィッツジェラルドの「僕は眠ったふりをしたり、空想にふけるふりをしたり、わざとそわそわするふりをしたものだった」
似すぎている。文章も、その言わんとしている意図も。
自分の処女作、最初の文章を、結局は『グレート・ギャツビー』からスタートさせるしかないのだ、という村上の思いを見て取ったような気がする。

作品は29歳の時に書いた割には、斜に構えすぎている感がある。チャンドラーの影響をもろに受けているが、これではハードボイルドというより、皮肉屋の嫌われ者だ。主人公は、皮相感ばりばりの軽口を叩いては、捨て台詞を吐かれる。酔った女と寝て「前にもいったと思うけど、あなたって最低よ」、拾った女と寝て、たった一言「嫌な奴」とのメモを残される。ガールフレンドに結婚したいと嘘をつき、「嘘つき!」とののしられる。エピソード集のような構成のこの小説のすべてではないが、軽薄な皮肉や格言が多く、洒落てすらない。
しかし村上は、なんとかここから小説家として第一歩を歩む。デビュー作でこれほどの文章を書くことの苦痛を吐露しながら、師であるフィッツジェラルドの代表作の冒頭をなぞることからなんとか中編を編み出すことができた。
デビュー作『風の歌を聴け』は続編『1973年のピンボール』とともに自ら未熟な時代の作品としているが、三部作の三部『羊を巡る冒険』につなげ、ディタッチメントの作風を確立していく。そういう意味ではもちろん、記念碑的な作品である。



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