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福岡天神が商都と呼ばれるまでの長い長い歴史

理髪店の若いお兄さんと天神の話になったとき、「天神ってもう、いらなくないですか」と言われ、大変な衝撃を受けた。「イムズもコアもなくなっちゃったし、デパートは高いし、飲みに行くなら大名(天神の西)で十分じゃないですか」…確かに「小売の黙示録」と言われるように、ファッションビルや百貨店は全国的にも青息吐息である。渡辺通りの地価は高く、若者のファッションストリートは大名や天神西通りなど西に移っている。「天神ビッグバン」により建て替えが続き、若者の待ち合わせ場所として有名だったファッションビル・天神コアも、天神ビブレも、イムズもなくなってしまった。少なくとも若者にとって天神の魅力が薄れてしまっているのは間違いないだろう。

博多駅ターミナルビルの博多シティが2011年に開業し、年間7000万人の入館者を集める一大商業施設に成長するにつれて、天神の商都としての存在感は薄れてきている。
だが、そもそも天神は、以前から商都だったのだろうか。今回はそんな天神の歴史を紐解いてみたい。

天神は、17世紀初頭に入部してきた黒田藩が福岡城の鬼門にあたる北東の位置に「水鏡天満宮」を遷してきたことに由来する(今でも明治通りに現存する)。南は因幡町といって、衣笠因幡守景信という「黒田二十四騎」にも数えられる上級武士の屋敷から名付けられた(今では町名は存在しない)。現在の天神の中心地も、江戸時代は武家屋敷が立ち並ぶ閑静な町だったのだろう。明治になると、西の福岡、東の博多は統合され、地理的に真ん中に当たる天神の地に福岡県庁が建てられた。

天神が福岡の中心街となったのは、1910年から1911年にかけて、福岡部・博多部を東西に貫通する「福博電気軌道」と、循環する「博多電気軌道」が、前述の渡辺與八郎らの尽力により開通し、天神駅が両線の交差駅になったのがきっかけだといわれる。1910年には天神界隈の丘を削り、堀(肥前堀)を埋め立てて博覧会「第13回九州沖縄8県連合共進会」が開かれ、91万4000人が来場した。福岡市の人口が8万人強の時代である。
とはいえ、商都・天神の道のりはまだまだ長い。『天神の顔 都心界40年のあゆみ』によると、天神交差点の人通りは1924年になっても1日に534人だったという。今だ商都は博多部である。天神は福岡県庁がおかれたのを機に、むしろ官公庁や文教の町の色合いを濃くしていた。福岡市役所、福岡市記念館、県立図書館、福岡日日新聞社、福岡高等女学校などである。

では、天神が商都として発展したきっかけは何か、光山武氏(都心会副会長=平成1989年当時)は端的に、次のように話している。
「今日の天神の発展は、1936年に岩田屋さん(岩田屋デパート)がまだ未開発だった九州鉄道(西日本鉄道の前身)の福岡駅がある天神にターミナルデパートとして進出してきた時から始まったといっていいでしょう」。
現在の西鉄・天神大牟田線は1924年、福岡天神―久留米間で開通された。当初は福岡駅を当時の中心市街地である東中洲に近い西中洲にする予定だったが、本社移転に伴い現在の場所に移された。福岡駅が西中洲に出来ていたら、今日のような天神の発展はなかったに違いない。
そして、岩田屋デパートが駅直結のターミナル百貨店として進出してきたのは1936年のことである。地下1階・地上8階、エレベーター4機。博多の呉服店・岩田屋はのれん300年の老舗、それが「場末」天神に進出し、このようなビルが建てられるのを見た見物客は「あーあ、これで岩田屋さんも立派にしまえ(倒産)なさる。お気の毒に」とつぶやいたという。ところが開店してみると初日になんと10万人が来店した。こうして西鉄沿線の開発とともに、天神はようやく商業の街としての道を歩み始めるのである。

1945年6月19日―福岡大空襲。B29爆撃機221機により、主攻撃目標(中心市街)の92.82%が破壊された。天神も焼け野原になった。
西鉄と岩田屋のコンビは力強く立ち直る。西鉄大空襲の3日後には市内線の運転を再開するし、岩田屋は軍需物資を更生して鍋、水筒、洗面器、下駄まで何でも売った。
ただし終戦当初に賑わっていたのがヤミ市である。天神界隈には天神町、因幡町、渡辺通1丁目などにヤミ市が開かれたが、市民から安心して買い物ができるようにしたいという機運が生まれ、商店街の構想が起こった。そこで、因幡町商店街や西鉄街、新天町などの商店街が生まれることになる。

1948年、天神の岩田屋とこれらの商店街が有機的に結びついて相互発展をすることを目的に「都心連盟」(都心界に改称)が発足した。いよいよ天神が都心となったかというと、まだまだ先である。当時、福岡市の都心といえば、いぜんとして博多(五町)。しかし発足においては出席者全員が「天神一帯を将来、必ず都心に」という願いから、都心連盟の名称は全会一致で決まったという。岩田屋顧問を務めた神戸大学名誉教授からは「福岡は東京都みたいに都じゃない。福岡都とはまた大きく出たもんですねえ」と冗談を言ったそうだが、都心界の面々も福岡天神が西日本を代表する商都となるとは思っていなかったかもしれない。

火災を機に、商店街はファッションビルへと変貌する。西鉄街は天神コアに、因幡町商店街は天神ビブレに変わった。そして天神は第6次にまで及ぶといわれる「天神流通戦争」の時代に突入する。第1次(1971~1976)はダイエー、博多大丸、岩田屋新館が、第2次(1989)はソラリアプラザ、イムズが、第3次(1996)は三越が、天神エリアに進出した。
数々のデパートの進出と切磋琢磨により、ようやく福岡天神は、博多を凌ぐ商業の街になったのである。一方「支店都市」として発展してきた福岡市のターミナル駅の所在地・博多は、オフィス街に変貌する。商業の街・博多と、出先機関の街・天神の役割が、見事に入れ替わるのである。

天神は、商都としてのブランドを得た。しかし、わずか数十年で、それも失われるかもしれない。第4次以降の流通戦争はもはや「天神流通戦争」ではなく、JR博多シティを筆頭とする他地域との戦争だからである。

福岡市の人口増とは裏腹に、西日本鉄道の幹線である天神大牟田線の乗客数は伸び悩んでいるどころか、減少している。コロナの影響もあるが、林田社長も「もうコロナ以前の乗客数には戻らない」と公言している。沿線の再開発も飽和状態なのかもしれない。JR博多駅とその周辺の活性化、モータリゼーション(自動車の利用)の進化とショッピングモールの発達など、ライバルも多様化・分散化している。
一方、天神をけん引してきた岩田屋は2002年に破綻、ターミナルビルはパルコが入り、天神西に本館・新館があるものの、今や三越伊勢丹グループの完全子会社である。

天神は衰退するのだろうか。いや、私は生まれ変わると思っている。ビル建て替えプロジェクト「天神ビッグバン」により、高層ビルは増え、国際金融都市や国際交流都市へと変貌を遂げている福岡市のオフィス需要の受け皿となるだろう。もちろんリモートワークや働き方改革により、オフィス需要は激しい逆風が吹いている。それでも人と人の集積と交流が、新しい価値観を生むと考えている。
西日本鉄道も商都としての天神ブランドにはこだわっていない。『西日本鉄道110年史』では、こう結んでいる。
「天神ブランドは天神に関わる全ての事業者・団体・行政などの努力によって、ますます磨きがかかっていく。天神は九州・アジアをけん引するビジネスが備えておくべき魅力的な機能を追求し、これからもアジアで最も創造的なビジネス街を目指し、変貌していく」。

いずれにせよ、都市は移ろいゆくものである。都市ブランドに安穏とせずに、次代の都市構想を見据えながら、ビジネスを考えていかなければならない。

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