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カルロ・ギンズブルグの『チーズとうじ虫』をちゃんと読む(最終回)

カルロ・ギンズブルグ『チーズとうじ虫』を精読するコーナー。第4回(最終回)は、16世紀イタリアの名もなき粉ひき屋メノッキオのその後の人生を追います。最後に私見を述べたいと思います。

不名誉な有罪判決や投獄にも拘わらず、出納係に任命されるなどメノッキオはモンテレアレ村での信頼を回復した。しかし外面的には教会への恭順を示していたものの、内面的には自らの信念を変えることなく、孤立を深めていた。15年の時を経て、メノッキオは再び異端的な意見を住民たちに吹聴し、1599年6月、再び逮捕される(51)。
2回目の審問では前回と同じくあらゆる信仰を相対化し、等価性があると主張している。異なるのは彼は自分が預言者であるといい、神秘的な経験をほのめかしている点である。これはコーランを読んだ影響だろう。ダンテ『新曲』の影響も垣間見える。メノッキオは裁判の後、拷問にかけられ、ローマ教皇クレメンス8世自身の催促により、火炙りによって刑死する。

むすびにあたりギンズブルグは次のように指摘する。上層文化と農民文化には驚くべき類似点がある。しかし上層から下層へとへと(一方的に)文化が普及するというテーゼは支持しがたい。むしろ中世および中世以後のヨーロッパにおいて、上層文化の大部分に民衆起源の文化が潜んでいる。ラブレーやブリューゲルは例外的人物ではなく、上層文化と民衆文化の間での交流の文脈から現れたのである。宗教改革に続く農民戦争によって支配階級は人民大衆を抑圧しようと掛かる。ジェズイット会士による農村伝道、プロテスタント諸教会の宗教的な組織化、魔女裁判、マージナルな人々への過酷な規制などヨーロッパ各地で形こそ異なるけれども、民衆文化の抑圧と抹消という背景のもとにメノッキオの事件は位置付けられる。

最後に私(光山)の私見。ヨーロッパ中世の民衆文化の実像を掘り起こすために、ギンズブルグはメノッキオという粉ひき屋の言説を取り上げました。ギンズブルグはメノッキオが純粋な民衆文化の担い手ではないことを認めたうえで、印刷本のテキストとメノッキオの読み方のズレから民衆文化の源流を垣間見ようとしました。
ただ結局、読者が共通して疑問に思うであろうことは、メノッキオが果たしてどれだけ一般民衆を代表しているかということです。訳者の杉山光信は「異端審問官たちとメノッキオのばあいの文化的へだたりが、もっと正確に言うとこのへだたりは例外的に近いのだが、それが問題なのである」と指摘しています。10冊前後の本を読みこみ、独自の宇宙観を作り出し、さらに社会批判へ進んでいったメノッキオは、杉山氏の言う通り、今日の日本でもそう多くはないのではないでしょうか。
何しろエリート層の異端審問官と対等に激論を交わし、一時は立場を逆転させ、自らの信仰への説得を試みるくらいなのだから、メノッキオは歴史的人物といえないとしても、知識人といって差し支えないのではないでしょうか。すくなくともエマニュエル・トッドの指摘する通り、「メノッキオの唯物論的な諸概念は、すると社会的な階段の下から来たのか、上からきたのか、それを言うのはむずかしい」のです。
というわけでメノッキオは名もなき民衆の一人ではなくなります。ところで、私が注目したいのはメノッキオに対する住民たちの反応です。彼らはこれほど強烈な思想の持主に対して、当惑し、なだめながらも、コミュニティの中に受け入れ、共存しているということです。彼ら住民たちの反応からこそ、民衆の心性が分かるのではないでしょうか。つまり私たちが思っているほど、ヨーロッパ中世の民衆は信仰に対して抑圧的ではなく、多様性に寛容だったのではないでしょうか。
この著には一瞬だけ、旅の説教師や預言者もどきが出てきます。これは素人の私の仮説ですが、これら多様な信仰に対して、少なくとも民衆文化は寛容であった。そう仮説を立てることもできたのではないでしょうか。
もう一つは、メノッキオは強烈な異端信仰を持っていたけれども、無神論者ではなかった。16世紀においては無神論が成り立たないという集合的心性があったのではないでしょうか。ギンズブルグは「はじめに」においてリュシアン・フェーブルを批判しましたけれども、結局はラブレーの時代と同じく、集合的心性というものは存在したのではないでしょうか。

4回にわたり読んでいただいてありがとうございました。はっきり言って難しい本ですけれども、noteにノートすることで何とか読破できました。これは知ってほしいことですけれども、現代歴史学は人類学から人口統計学まで、あらゆるアプローチを駆使して歴史を再構成しようと試みています。民俗学はいわんやです。noterさんの多様なアプローチを楽しみにしています。


(おわり)


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