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ゴルバチョフの禁酒キャンペーン

1985年3月、ソ連のチェルネンコ書記長が74歳で死去し、71歳のグリーシン、62歳のロマノフ、80歳のチーホノフらのライバルを押しのけ、54歳のミハイル・ゴルバチョフが新書記長に選ばれた。5月にレニングラードの路上に登場し、1メートルも離れない場所から市民に直接語りかけ、熱狂する200人もの市民の輪に囲まれた。続いて行った演説で、市民は、若く、親しみやすく、カリスマ性があって、そして(それまでの老指導者と違って)滑舌の良い新指導者を知った。人々はテレビで放送された演説について熱く語り合い、録画されたビデオテープは闇市で500ルーブルで売られた。ゴルバチョフにとって幸先の良いスタートだった。

しかしゴルバチョフは就任1か月後に打って出た「大勝負」にいきなり躓いた。禁酒キャンペーンである。周知のとおり深酒はロシアの宿痾しゅくあだった。帝政末期の1914年から為政者は飲酒の規制に乗り出していたが、その当時の一人当たりの飲酒量年間1.8リットルに比べて、1985年の一人当たり飲酒量年間は10.6リットルになっていた。

ゴルバチョフは人道的側面からも、労働者の生産性向上のためにも深酒対策が必要と考えた。しかし、ゴルバチョフは経済的な問題を軽視した。「国家予算の損失は1990年には150億-160億ルーブルに達する」という試算を説明する官僚たちに対して、ゴルバチョフは「(試算には)何の新味もない。国民に金があっても買うものがないことは誰でも知っている。しかし、君の意見は国民に飲め、と言っているようなものだ。説明を短めにしたまえ。ここは財務局ではない。政治局なのだ」。と言い放つ。論理的な反論とは程遠い。

禁酒キャンペーンによって平均寿命・出生率・犯罪はわずかに改善したが、「大勝負」は大敗北に終わった。経済損失は1990年までの5年間で1000億ドルに達し、ソ連にワインを輸出する共産圏諸国に打撃を与えた。国民は憤慨し、ゴルバチョフを「ミネラルウォーターの書記」と呼んだり、「ゴルバチョフを殺しに行こうとしたら(酒屋の長蛇の列よりも)長い列ができていた」といった笑い話アネクドートが流行った。人心はこの時から離れ始めていたのだろうか。

ソ連の官僚主義の伝統で正確な情報を把握できなかった、原油価格が1985年11月から翌年春までに3分の1以下に暴落した、などゴルバチョフに責任を帰せられない問題もあるだろう。しかし「新思考外交」といわれた華やかな対外的な顔とは裏腹に、ゴルバチョフは内政で躓いた。その一端がうかがえるのがこの「禁酒キャンペーン」ではないだろうか。彼の理想主義は、「金があってもモノがない」というソ連の市民たちの現実の前には無力だったのである。

参考文献

ウィリアム・トーブマン『ゴルバチョフその人生と時代』

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