【読書感想文】上田岳弘『ニムロッド』

主人公の友人と恋人はともに「人類の営みにのれない」ことに無力感を感じ、「駄目な飛行機」というメタファーに乗って去ってしまった。ひょっとしたら二人は結ばれて主人公から去っていったのかもしれないし、死んでしまったのかもしれない。
主人公の友人・荷室は小説家志望。「誰かの心に文字を通じて何かを記載することで、それが世界を支えになる」、そう信じて生きていた。飛行機の発展の過程で消え去ってしまった「駄目な飛行機」たちのように、例え完全ではなくても、人類が紡ぐ歴史に寄与することで、個人の存在意義が担保されると考えてきた。しかし文学賞に落選し、心身を崩す中で、その信念は揺らぎ始める。「駄目な飛行機があったからこそ、駄目じゃない飛行機が今あるんだね。でも、もし、駄目な飛行機が造られるまでもなく、駄目じゃない飛行機が造られるのだとしたら、彼らは必要なかったということになるのかな。ところで今の僕たちは駄目な人間なんだろうか?」。それでいて社会への未練は残る。隠遁した作家・サリンジャーを念頭に言う。「僕はまだ金庫に直行させてもいいやと思える文章が書けていないのかもしれない。人類の営みから逃れきれていないのかもしれない」。

主人公の恋人・田久保紀子は外資系証券会社で活躍するエリート。結婚も順調だったが、妊娠した胎児に染色体異常が見つかり、堕胎することになる。それ以来、「人類の営み、みたいなもの」に「もうのれないような気がする」と感じるようになる。

人類の営みとは、人々が協働して築き上げる塔であり、引き継がれるDNAであり、ソースコードをみんなで書き込むことで成立するビットコインのようなものである。その営みに参加することで、個の意味が担保される、そう信じられてきた。しかしこの情報化社会のなかで、個の意味が希薄化されていき、その無力感に個がむしばんでいく。システムの中で個が無力化される。そう作者はいいたいのだと思う。

ほったゆみ原作の『ヒカルの碁』というコミックの最終回では、主人公たちは「遠い過去と遠い未来をつなげるために、そのためにいるんだ、オレは、オレたちは、誰もが」という思いを共有する。しかしそのような実存主義的な連帯感が、高度にシステム化された資本主義社会の中では、実感できない。個は無名化されていき、埋没していく。

作者は荷室の小説の登場人物に、次のように言わせ、人類の未来を予言している。
「生産性を最大限に高めるために彼らは個をほどき、どろどろと一つに溶け合ってしまった。より強く高く長く生き続けたいという希望を最大限発揮できるからね。情報技術でこの意識を共有し、倫理をアップデートしてしまえば、その個を超越した価値基準に体の形状をあわせることへの躊躇いなんてなくなるし、体の在りを変えるなんて造作のないことだ」。荒唐無稽だが、一つの示唆ではあろう。

ダメな飛行機、仮想通貨、意味のない涙、バベルの塔…メタファーをふんだんに盛り込んでおいて、「はい、メタファーですよ」と読者に明示するところがないところが逆に気に入っている。キザなところとか、どこか見下したところとか、見えないわけではないけれど。

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