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「黒い悪魔」デュマ将軍が革命期フランスで活躍できたわけ

『三銃士』で有名なフランスの大作家・アレクサンドル・デュマは、『椿姫』の作者である息子と区別するために父デュマデュマ・ペールとも呼ばれるが、父デュマにも当然父親がいる。しかし父デュマの父親がナポレオン軍の麾下の「黒い将軍」として恐れられたトマ・アレクサンドル・デュマ(1762-1806)であるという事実は、あまり知られていないかもしれない。
200年前のフランスで、有色人種であるトマが将軍にまで上り詰め、フランス軍を指揮していたという事実は興味深い。日本では佐藤賢一が彼の人生を『黒い悪魔』として小説化している。
今回は、トマ・アレクサンドル・デュマが当時のフランス社会に溶け込み、出世を遂げられたのは理由について考察する。

1、 父親が白人貴族だった。

「黒い将軍」「黒い悪魔」と名付けるから印象操作されるのであって、彼は黒人ではなく混血児だった。トマはフランス人貴族である父とプランテーションの奴隷である母との間に生まれたムラートであった。父親は西インド諸島のプランテーションを経営し、乱脈経営と放蕩で多額の借金を負っていたが、それでもフランスで4世紀にわたる名家だった。彼が黒人奴隷同士の子供だったならば、出世どころか、フランスの地を踏むことも、それどころか奴隷の身分から解放されることもなかっただろう。

2、 ルックスと身のこなし

奴隷として少年時代を送った彼だが、16歳になってから学問、乗馬、フェンシングなどを習得し、フランスの上流社会にも立派に溶け込んだ。ルックスが良く、身のこなしも長けていて、しかも高級な衣服をいつも身に着けていたから、社交界でも人気者になり、女性にももてた。新大陸出身の有色人種、いわゆる「アメリカ人」であったことも、反英感情の強いフランスではかえって好意的に受け取られた。

3、 軍人としての実力

馬を持ち上げたという(信じがたい)逸話を持つ怪力、決闘でも連戦連勝の剣術の腕前、そして味方が少数でも敵軍を急襲する勇敢さをもって、実際の戦闘でも大活躍し、軍功に軍功を重ねた。エジプト遠征では、敵軍は、背が低く痩身のナポレオン・ボナパルトではなく、見事な体躯で騎馬を操り、塹壕を突破していくトマ・アレクサンドル・デュマこそ、フランス軍の総大将だと誤解したくらいである。

4、 啓蒙主義の全盛だった

これが一番重要なのだが、「自由、平等、博愛」の啓蒙主義の全盛期だったことが、有色人種のトマ・アレクサンドル・デュマにとって幸運だった。18世紀半ば、ジャン=ジャック・ルソーら啓蒙思想家は、奴隷制を人権抑圧の象徴として論じた。多くの弁護士たちも奴隷たちをフランス国民として扱われる権利を求める裁判を起こした。フランス王政は反動的であったが、その王政もフランス革命で倒れた。1794年、フランス革命政府は世界で初めて奴隷制度を廃止した。フランス政府は啓蒙主義が掲げる普遍的価値に常に従順だったわけではなく、欺瞞も多く行われたし、トマも何度も偏見や差別を受けたけれども、共和制の掲げる理念のために戦った。

啓蒙主義は普遍的信条のように思われたが、ナポレオンの専制によって大きく後退する。トマはナポレオンによって任を解かれ、2年間の監禁を経たのちに復職を申請するも、ナポレオンの人種差別政策によって軍から追放される。1806年、監禁時代にヒ素を盛られた体と、追放された精神の苦痛から、トマは亡くなる。43歳であった。

トマ・アレクサンドル・デュマは、究極的には、啓蒙主義とその反動により翻弄された人生だった。自由・平等・博愛の啓蒙主義の価値は、一見普遍的のようだが、時代によって移り変わることがわかる。

参考文献

トム・リース『ナポレオンに背いた「黒い将軍」』

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