見出し画像

久留米歴史散策

本日はお日柄もよく、ふらっと久留米まで行ってきたよ。
最寄りの大橋駅から西鉄大牟田線特急でわずか2駅24分、西鉄久留米駅からJR久留米駅までもバスで10分程度。あっというまに筑後の国・久留米にやってきた。

JR久留米駅の水天宮口。新幹線も通って奇麗、奇麗。

JR久留米駅水天宮口っていうんだから、水天宮まで徒歩数分、これまたすぐに目的地の水天宮に着く。

筑後川の畔にある水天宮

東京では地下鉄水天宮前駅チカにある水天宮が有名で、「情け有馬の水天宮」なんて洒落が江戸時代からあるのだけれども、総本宮はここ久留米の水天宮で、江戸の水天宮は、あまりに総本宮にはるばる参る人が多いので、有馬藩邸内に分祀され、しかも江戸後期になって一般公開されたのですな。

水天宮はかの壇之浦の合戦で入水した安徳天皇を祀るために女官であった千代が建てたといわれる。千代は平右忠を後嗣とし、代々その子孫が宮司を務めてきた。
その22代宮司がかの真木和泉守である。

水天宮境内に堂々と掲げられる真木和泉守の銅像

真木和泉は幕末の尊王攘夷派の志士で、京都の禁門の変で幕軍と戦い、敗れて京都郊外の天王山にて自刃する。私のnoteでも度々登場するので詳しくは割愛するが、真木和泉はもちろん明治の代になって勤皇の志士として崇められ、ここ水天宮境内に眞木神社が建てられ、祀られている。

水天宮境内の眞木神社

真木和泉の辞世の句は次のようなものである。

大山の 峯の岩根に 埋めにけり わが年月の 大和魂

真木和泉は脱藩前、久留米藩政の改革にも努めたが、山梔窩|《くちなしのや》に謹慎される。そのレプリカも境内に飾られている。

なかなか不遇の人だったんだね。真木和泉。

水天宮からは筑後川も望める。水運・農業・そして近代は化成業で栄えた久留米市の歴史は、筑後川なくして語れない。南北朝時代も「筑後川の戦い」が起きるなど、たびたび戦場ともなった。

九州一の河川・筑後川

というわけでJRの駅前に戻ると、ブリヂストンの石橋正二郎と、東芝の田中久重(からくり儀右衛門)という近代久留米の二大巨頭にちなむモニュメントが飾られている。

左がからくり時計、右がブリヂストンのタイヤ。

失礼、右のブリヂストンのタイヤは本物である。直径約4メートル、重さ約5トン。主に鉱山車両用として使われている。これだけのタイヤを造れる世界でも数少ないメーカーが、ここ久留米発祥のブリヂストンである。もともとゴム製の地下足袋などで栄えた久留米だったが、石橋正二郎は車のゴムタイヤに進出して大成功を収めるんだね。一見まったく異なる事業のようで、「履く」つながりで、地下足袋とタイヤには共通項がある。

ブリヂストンの世界最大級のタイヤ

というわけでブリヂストンは地域へのフィランソロフィー活動(美術館やらなんやら)もあって、久留米市民にとても愛されている(と思う)。ブリヂストンの久留米工場沿いの通りは「ブリヂストン通り」というが、これもブリヂストンが舗装し、市に寄贈したものである。

ブリヂストン久留米工場沿いのブリヂストン通り。

そのブリヂストン通りを通ってブリヂストン久留米工場を横目に久留米城址に向かう。1200メートルというから、工場の大きさは分かっていただけるだろう。

そして着いた。久留米城址。

久留米城址

古城としての久留米城の歴史はとても私には紐解けないが、関ケ原の戦いで西軍についた小早川秀包(毛利元就の息子)に代わって、東軍として石田三成の捕縛の大功を挙げた田中吉政が入城、田中氏断絶の後に、同じく東軍の有馬氏が福知山から移封されて久留米藩の藩祖となった。

有馬記念館

年末の競馬のオールスター戦・有馬記念はもちろん有馬氏の子孫である有馬頼寧氏が創設したダービーである。有馬記念、ではなく、有馬記念館が場内にあり、有馬藩の歴史のビデオや、企画展などが催されていた。今回は有馬藩御用達の絵師・三谷家の絵画が飾られていた。「勿来之関」「菊地武光」「征西将軍」「楠木正行」などの絵は、絵心のない私にもぐっとくるものがあった。

帰りはJR駅に引き返したので、横着して新幹線に乗った。博多駅に行くのは便利だが(17分)、私は南区の大牟田線沿線に住んでいるんでちょっと失敗した。

旅したいな、つばめでね。

おしまい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?