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長崎・大阪、活版印刷の旅

2024年4月18日に長崎市、19日に大阪市に仕事で行ったのだが、どさくさに紛れて博物館めぐりもしてしまった。題して「長崎・大阪、活版印刷の旅」です。

長崎市編

長崎歴史文化博物館

福岡市天神からバスで2時間あまり、長崎駅前に着いた。そこから徒歩15分ほどで長崎歴史文化博物館に着く。長崎奉行所をイメージしているのだろうか、近世城郭を思わせるつくりだ。

坂本龍馬(1836-1867)

エントランスホールにはでっかく坂本龍馬像。亀山社中をつくった坂本龍馬をたたえたいには分かるが、長崎を代表する人物が、土佐の坂本龍馬というのもなんとも寂しい。といっても私も、長崎出身の歴史的人物は上野彦馬(写真技師)とか、それこそ本木昌造(活版印刷技師)くらいしか思いつかない。

天正遣欧少年使節団の伊東マンショ。

長崎港は1570年、日本初のキリシタン大名といわれる大村純忠が開港した新しい港である。伊東マンショら少年をローマに活かせた天正遣欧少年使節団も大村純忠らの支援で長崎港から出港した。なお、当初博多港を貿易港とようとした豊臣秀吉は浅瀬の博多港をあきらめ、伴天連追放令のあと長崎港を天領とした。

コンスタンティノ・ドラードが印刷した「原マルチノの演術」

天正遣欧少年使節団はローマ教皇と会い、活版印刷の技術も持ち帰った。帰路のインド・ゴアで原マルチノが演説した内容も、随行員のコンスタンティノ・ドラードが印刷している。コンスタンティノ・ドラードは日本名こそわかっていないが、長崎県・諫早生まれのハーフの日本人である。ドラードは帰国後、活版印刷を伝授し、キリシタン活版印刷が花開いた。なおドラードはゴアに渡りそこで死去している。

長崎・対馬・薩摩・松前の「四つの口」

われわれが子供だったころは「鎖国」といわれたが、実際には長崎・対馬・薩摩・松前を通じてゆるやかにモノや情報が流入していた。なぜ活版印刷が日本では普及せず、木版文化に逆戻りしたのかは諸説あるが、謎っちゃ謎である。漢字が多すぎたのだろうか、当時の活字が日本人の審美眼に堪えられなかったのだろうか。

長崎に遊学した人々

情報の最先端地・長崎を目指したのは坂本龍馬だけではない、平賀源内から福沢諭吉まで、みな長崎を目指した。

本木正栄らが編集した「フランス語学事始め」

そんななか、阿蘭陀通詞を代々務める本木家は、単なる通訳だけではなく、蘭学の普及に大きく貢献した。本木昌造も長崎に生まれ、本木家と養子となり、幕末・維新期に活版印刷の製造に取り組むことになる。

本木活版の種字

1869年、本木昌造はウイリアム・ガンブルより金属活字を修得し、鋳造に成功する。

新街活版所跡の碑

博物館から徒歩15分くらい、眼鏡橋の近くの街中の一角に、長崎県印刷工業組合が建てた「新町活版所跡」の碑と種字を再現したものがある。本木昌造は新町活版所を興す。金属活字に成功したのは薩摩藩の木村嘉平など複数いるが、ここ新町活版所の門下生が東京・築地など各地で事業化し、普及していったからこそ本木が「近代活版の父」と敬われている。本木昌造の功績は異を待たないが、平野冨二ら弟子の功績も見逃せない。

稲佐山山頂より長崎港を望む

どさくさにまぎれて稲佐山をロープウェーで登り、「百万ドルの昼景」を堪能してしまった。おそらく黄砂でガスってたけれども、思いがけずよい景色であった。

大阪市編

活版は一文字一文字鋳造しなくてはならないけれども、写真植字ならば文字をいくらでも複製できるし、大小に変えることもできる。写真植字機というとんでもない発明をした人物が日本の森澤信夫(1901-2000)である。森澤信夫が創業した大阪市のモリサワ本社にある「文字の歴史館」にお邪魔する機会をいただいた。

ヨハネス・グーテンベルク印刷の「42行聖書」の原葉(1455)

ヨハネス・グーテンベルクの活版印刷の発明は、「1000年紀最大の発明」ともいわれている。そのグーテンベルクが印刷した42行聖書の原葉(元ページ)が残されている。

キリシタン版「どちりいな・きりしたん」

「文字の歴史観」によると、キリシタン版をもたらしたのは天正遣欧少年使節団を企画したイエズス会巡察師ヴァリニャーノであるとしている。ヴァリニャーノなのかドラードなのかの議論は、私の手には負えない。

そのほか、ウイリアム・モリスの美本など実物が展示されていて大いに驚いた。

印刷業界以外の方にお伝えすると、現在は金属活字の鋳造などは行っておらず、写真植字機からMacintoshのDTP(デスクトップ・パブリッシング)でのデジタルフォントへと変化している。とはいえフォントの文化が廃れるとは到底思えず、これからも連綿と文字文化は続いていくだろう。



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