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【ネタバレ有り感想】大豆田とわ子と三人の元夫を観て、一人で生きるとは、誰かと生きるとは。

前の記事でも紹介した「大豆田とわ子と3人の元夫」について、他のドラマや小説とは違った形で心を揺さぶられたと感じている。そしてそれは小娘なりに仕事や人と格闘してきた今だからこそ響いたのだと思う。なんとかきれいな形でアウトプットしようとしているうちに生の感動が薄れていってしまいそうなので、どんなところが、なぜ、心に残ったのか。物語についてつらつらと書いていこうと思う。

※ここからの内容はネタバレを大いに含みます、というかネタバレしかありません。今後観る予定がない方も、まだ観ていない方は回れ右してブラウザを閉じてください。というかお願いだから観てくれ、感想語り合おう。


失うことについて

この物語の主題、私は「失うこと」だと受け取った。「大豆田とわ子と3人の”元”夫」というタイトルの時点で既に3人の元夫と別れている。「別れたけどさ、今でも一緒に生きてるとは思ってるよ」2話のとわ子の台詞に、このドラマのテーマメッセージが込められているように感じた。
 加えて母親の死、そして友人の死(それも家族同然の)が次々と降りかかる。そんな数々を観て私はふと「これからの人生はこれまでの人生より失う事が増える」という当たり前のことに気づかされてしまった。家族。大切な友達。みんなまだ健康で、若くて、いつか別れが来る、ということは頭では理解ができるがどこか現実的ではない。けれどあと10年、20年と経つ毎にどんどん別れは増えていくのだろう。ただでさえ大変なことが多くて、大好きな人の存在が支えだというのに。そして、大切な人を失っても、自分の人生は続いていく。どうしたらいいのだろう、と途方に暮れてしまいそうだった。とわ子は「誰にもどうにかすることなんてできない」と教えてくれた。大切な人との”別れ”は人生に横たわり続けたままだし、それでも足は前に歩を進めるのだ。とわ子がかごめの部屋の冷蔵庫の残り物を食べるシーンには、衝撃を受けた。自分だったら、きっとどこか死が現実味を帯びないまま、空元気で案外やり過ごせる自分を嫌になるのかな、と思っていたが、こういう『儀式』があることが純粋に驚きだった。このシーンに覚えた感情はなんだかまだ噛み砕き切れていない。いつか誰かを失ったとき、追いつくのかな、と思う。遺体をのせた車が去って行くときに「かごめ~~~!!!!」と叫ぶとわ子の想いに共鳴して、今作で一番涙が出た。返事をしてくれることはなくても、呼びかけたくなっちゃうんだろうな。
 ずっと続いて欲しい時間は、長く続かないし、あっけなく終わりが来る。その切なさとも少しは上手く付き合えるようになってきたとは思うけれど、7話の小鳥遊さんの「5歳のあなたと5歳の彼女は、今も手を繋いでいて今からだっていつだって気持ちを伝えることができる」という台詞に胸が苦しくなった。この回の小鳥遊さんの台詞はきっと何度も思い返すし、勇気づけられるだとうな、と思う。

恋ってみっともない

このドラマで一番かっこいいのはとわ子だと思うが、一番好きなのは、もしかしたら慎森かもしれない。彼はまあみっともない。素直じゃないし、余計なことしか言えないし(「死んだ魚のお寿司」はめちゃくちゃ好き)、鹿太郎の言葉を借りると「言い訳がましく未練がましい」。捨てられたソファを見つけたところは思わず声が出ちゃった。そんな彼の、9話の叫びが、痛いぐらいに胸を抉った。「人の孤独を埋めるのは、愛されることじゃないよ、愛することだよ。そしてそれは僕のことじゃない。残念ながら君はあの人を愛してる」もうこうして書いているだけで痛い。どうしてだろう。恋をすると、人は、みっともなくなってしまうから。慎森も、とわ子も、八作も、誰かを愛して、でもその人には想われなくて。ちぎれるほど辛くて、それでも彼の言うとおり愛することの喜びがあって。必死になって、不器用になってしまって、やめたくてもやめられない。その両極端な感情を一緒に抱える痛みに共感したからだと想う。人を想う人間は痛々しくてみっともない。けれどちょっとそんな彼らをほほえましく、うらやましく感じてしまった。(実際身に降りかかると溜まったもんじゃないけど)
 そして慎森の、1話から最終話までの成長も等身大でよかった。とわ子への愛に向き合ったから彼女の想いに気づいたし、彼女が目をそらしている事実をまっすぐ伝えに行ったのだ。誰かを愛すること、真剣に向き合うことって、自分と向き合うことでもあるなあと感じた。

仕事とプライベート

OLも3年目に突入した私であるが、働くとわ子とそれを取り巻く人々にもたくさん感じるところがあった。
まずは2話の、とわ子が社長を引き受けようと思ったエピソードについて。
「目の前にいちごのタルトを置いて、分厚い数学の問題集を頭抱えるようにしてうなりながら一生懸命解いてた。でね、解き終わったら彼女、ずっと目の前に置いておいたイチゴのタルトを食べ始めたの。すごく、おいしそうだった。それをね、見てね、社長を引き受けることにしたの」
ああ、とてもよく分かるな、と思った。何かを頑張る理由って、案外そんなところにあるし、「頑張る楽しさ」みたいなものもある。私の大好きな相田みつをさんの「本気」という詩を、そのシーンを見ているときにふと思い出した。私もそういう生き方を選んでしまう方なのだけど、私にとってのタルトに出会えたらいいなあ。
 そしてかごめからのこの言葉。「あなたみたいな人がいるってだけでね、あ、私も社長になれるって小さい女の子がイメージできるんだよ。いるといないとじゃ大違いなんだよ。それは、あなたがやらなきゃいけない仕事なの。」
この言葉をとわ子は背負うことにもなるけれど、男女平等が叫ばれるもまだまだいびつな社会で働く自分として、おおいに共感するものだ。職場には仕事と家事を両立させているたくさんの女性の先輩がいて、不可能ではないと証明してくれている。きっと彼女たちの前にはまだロールモデルとなる人は少なく、手探りで証明し続けてくれているのだと思う。そして「逃げるは恥だが役に立つ」でのゆりちゃんの台詞も思い出した。「あのひとががんばっているなら自分ももう少しやれるって。」自分の生きる姿が、誰かに勇気を与えうる。そのことに結構力を貰えるもんだよなあと思う。けれどそれは辛いことを我慢し続けなくてはいけないとか、犠牲になるとか、そういうことでもない。肩の力を抜いて、背筋を伸ばす。そんな自分の姿を見ていてくれる人がいたらいいな、と思う。もういっちょ頑張りますかね。
 とわ子の会社の部下、松林さんとの関係については見ていて苦しかった。彼女の視点に立って描かれることはなかったが、彼女なりに会社を愛し、仕事を一生懸命にやっていて。それ故のすれ違いや憤りがあって(それはフェアじゃないよね、と思う言動もあったが)。とわ子の、そんな彼女との向き合い方に込められた真心をかっこいいと思う反面、それじゃあそんなとわ子のことは誰が守ってくれるのだ、と心細くもなってしまった。終盤、自宅に招かれた松林さんが謝るシーンには、でもきっとそんなとわ子だからこそ彼女の心を溶かせたのだなあと思ったし、とわ子の背中を見続けてきた松林さんがとわ子の目線に立ったとき初めて見えたことがあるのだろうな、と感じた。
 それから。かごめの死で打ち切られた会談にも、仕事とプライベートについて考えさせられた。仕事とプライベート、完全に別で考えることは不可能だ、と働き始めて感じるようになった。ある程度器用に棲み分けることは可能だろうが、責任が増せば増すほど難しくなっていく。そしてどんな事情があったとしても、投げ出すことは許されない。仕事をするために生きているわけではないが、生きるためには仕事が必要で。とわ子のようなケースはなかなか珍しいと思うが、なんだかなあ、と思ってしまった。

かごめ、ああかごめ・・・ そして八作ととわ子

 かつてこんな恋が描かれたドラマがあっただろうか。これは八作、とわ子、かごめ、それぞれに対して思ったことだった。靴下一つも渡せない恋。「あなたを選んで、一人で生きていく」恋。自分の人生に恋愛は不要だという生き方。4話の終わりで八作の秘められた想いに気づいた時は「ええええ~!!!」と一人で叫んでしまった。この3人の、複雑に絡んだ想いが最終話までかごめの不在を何より存在感あるものにしていたのだと思う。田中八作は本当に厄介な男である。こんなの身の回りにいなくてマジで良かったと思うし(サブカル女の巣にこんなの放り込んだら街一つ消し飛ぶ)、4話までは人にあんまり興味ないのかなと思っていたら何それそういうこと!??不器用すぎない!?!?
その一方で9話で描かれるとわ子と離婚していなかったらのifがあまりにリアルで、とわ子に対する愛情があるからこそこんなに話がややこしくなるのであって・・・、人の抱く愛情の種類って相手の数だけあるんだろうなあ、と改めて考えさせられてしまった。「誰だって心に穴を持って生まれてきてさ、それを埋めるためにじたばたして生きてるんだもん。愛を守りたい。恋におぼれたい。一人の中にいくつもあって、どれも嘘じゃない。」だから一人の人を見つめるというのは、難しい。向き合っていくのは、もっともっと難しい。
 そして最後にとわ子が出した答え。かつてこんな答えを出すドラマがあったのだろうか。「あなたを選んで、一人で生きていく」。「3人で生きていこうよ。」愛する人と結ばれて、共に生きていく。それこそが幸せの形だと、これまで私が触れてきた物語は教えてくれてきた。しかしここでとわ子が選んだのは、「彼を愛する自分」なんじゃないだろうか。一緒にいて苦しくなるでも、捨て去るわけでもなくて。こんな片思いの終着点があってもいいんだなあ、尊いものを眺めるような気持ちでそのシーンを観ていた。

一人で生きていくことと、誰かと共に生きていくこと

 そして最後に、改めてこのテーマについて。とわ子の母親とのやりとりの、「一人でも大丈夫になりたい?誰かに大事にされたい?」「一人でも大丈夫だけど、誰かに大事にされたい」これは俺のことですか???もう身につまされてつまされて。きっと誰にとっても永遠の難題なんじゃないだろうか。孤独と自由。望んだ自分とさみしさ。どちらかが100%になる日はずっとこなくて、どちらかを追えば追うほどもう一方が強くなる、そんな矛盾の中で私たちは生きている。この問いに対する解は、自分で見つけていくしかないのだけれど、とわ子の言葉に新しい視点をもらった。
「私、ちゃんといろんな人に起こしてもらってきたよ。今は一人だけどさ、田中さんも、佐藤さんも、中村さんも。みんな私が転んだときに起こしてくれた人たちだよ。お父さんだってそうだよ。言いたくないけど、支えになってるよ」誰かと別れるって何だろう。共に生きるって何だろう。一人で生きるって何だろう。これって全部、同じ事なんじゃないだろうか。言ってしまえば人は一人で生まれて一人で死んでいく。色々な人と出会って、人生が重なる。どれだけの長さが重なるかはまちまち。でも必ず別れは来る。「何も残らない別れってないよ」これが伝えたかったことなんじゃないだろうか。誰かと関わることで、ぶつかることも、傷つくこともある。わかり合えないこともある。もしかしたらその方が多いのかも知れない。けれど誰かとの関わりを通して見えるようになることがある。感じ取れるようになる世界がある。世界が素晴らしく見えたりする。誰かを愛する喜びを知る。失う痛みを知る。そして、歩き続ける美しさを知る。
そんな全てと、別れのときが来ても、共に生きていくのだ。何も失っていないのだ。痛みも、喜びも、不在も、全部引き連れていく。生きていくって、そういうことなのかも知れないなと感じた。きっとそんなところが24歳の今、私の心を揺さぶったんだなあと思う。

さいごに

きっとこれからの人生、たくさん失うし、たくさん痛みを感じるのだろう。きっとそれは避けられない。そんな痛みも一緒に、それでもふふっと笑えるのかもな。そう思わせてくれるドラマでした。まだまだとわ子の人生を見つめていたいような気持ちだけど、ここから先のわたしも、ちょっと心細くなくなった気がします。どんなことが起きるか、日々心の中でナレーションでも付けながら、乗り越えていってみようっと。


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