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そういえば死にたいって思わなくなったな

2月のことだった。
特に何か良い事や、感銘を受けるような出来事があったわけでもないのに、ふと、「そういえば死にたくないかも知れない」と思ったのだ。

「そういえば死にたいかも知れない」「どちらかと言えば死にたい」アンケートの回答くらいの温度感でそう思っている自分に気づいたのは、昨年の夏頃のことだった。逆に言うと幸せなことに、これまではとりわけそう思うこともなく生きてくることができていた。
仕事の責任が増えた、恋人と別れた、一人暮らしで孤独だ、お金がない、思い当たる原因はいくつかあったが、○○があったから、というわけではなく、「人生ってもしかしたらクソゲーだったのかもしれん」ということにこの年になってようやく気づいたのだ。
そう思っている自分に気づいた時には結構愕然とした。そう思ってしまうくらいには、自分って今参っているのだろうか。今すぐ死んでやる!というほどの勢いもないけれど、こんな気持ちでこの先何十年と生きていかなきゃならないのだろうか。安楽死とかできないのかな。でもおばあちゃんとか親より先に死ぬのは申し訳ないな。でも生きていくのが大変だな。

「人生ってもしかしたらクソゲーだったのかもしれん」と書いたが、大きく何かに絶望したわけではない。もともと世の中がそんなに素晴らしくできていないことは分かっていた。ただ、しんどいことと楽しいことの比率があまりに割に合っていない、と感じる機会が増えたし、世の中善人ばかりではないと知ってはいたが、到底理解できないと思う他人の言動に自分の精神が削られていく感覚と日々隣り合わせだった。「こんな思いしてまで何のために生きているのだろう」という気持ちを常に抱えていた。今でもその問いの答えが明確に答えられるようになったわけではないが、少し前までは「うっかり事故とかで死ねちゃったりしないかな、通り魔とかいてもむしろ刺してもらってかまわないな」などと思っていた自分が、「なんとなくでもまだ死ぬのはもったいなくね?」くらいに感じ取れるようになったのには、3つのコツがあったように思う。

まずは、「目の前のことを考えるようにする」ということ。自分では意識していなかったが、私は100%を出さない自分に罪悪感のようなものを抱いていた。「貯金をしなくては。英語の勉強もやりたい。ダイエットもしなくては。なのに今日は自炊もできなかったしだらだらと動画を見てしまったしジムにも行かずにプリンまで食べてしまった」と悲壮感を感じてしまうのだ。学生時代は学校、部活、習い事、塾の全てを一日に詰め込んで、頑張れる自分を誇りに思っていたが、今勉強して将来的にTOEICで点を取れるのも幸せだけど、だらだら動画見ている今も幸せでは?と思うようになったのだ。これだけ書くとなんだか怠け者の開き直りのようにも思えるけれど、最短距離で最速で走り続ける必要性ってないのかもしれないな、と思うようになり、「少しでも前進できている」自分を認められたときに、少し肩の力が抜けるような感覚があった。

次に、「自分の事が大好き」になったこと。私はありがたいことに自己肯定感がめちゃくちゃ高いし、自分のことが好きだ。けれどあまりその事実に目を向けたことも無かったし、強くそう知覚してもいなかった。それでも日々様々なことと向き合う中で、自分が何を大事にしていきたいのかを明確に言えるようになった。そしてそれを叶えるために自分で自分を動かすことができる、という自信がついた。思えば起こる事に受け身になって、もう良い事もたいして起こらないから生きていたってしょうがない、と諦めていた部分があった。しかし少しずつ挑戦してみたり、思い切って環境を変えてみたりすることで起こる変化に気づき、希望を感じると共にそんな自分ならこの先まだわくわくできるかも、と自信を持てたことが大きかったと思う。

そして最後に、一番大きなことは、自分の決断を重ねていく、ということ。
その人がどんな人なのかを形成するのは、環境に加えて、その人がどんな決断をしてきたかによるところが大きいのではないだろうか。私が今でも支えにしている言葉に、「あなたの勇気ある、美しい決断が、あなたという人間の人生を光のある方に引っ張ってくれます。あなたはそういうことのできる人です。」というものがある。しんどいとき、迷うときに、あくまで自分の意志として悩み抜いた末に答えを選ぶこと。そのことによって自分という存在が揺るがないものになるし、何度悩んでも自分はそうして答えを出す、という自信を持てるのだと思う。
私はこれまでどちらかといえば人といる方が心地よく、他人といるときは周りの流れに合わせる方で、あまり自分で「こうしたい」を強く主張するほうではなかったが、一人で暮らすようになって「自分ってこんなに何もなかったんだ」と意識した。そして日々小さな事でも自分の意志で決めていくうちに、「自分の生活」というものが確立されてきた。少し前に賃貸の契約更新の機会があり、テレワークも多かったことから実家に帰るか悩んだことがあった。その中で、「自分は今の暮らしを結構愛している」ということに気付いた。そしてそれは紛れもなく自分の手で選び取ったものだし、日々の苦労の中でつないできたもので、他人から見たらものすごく些細でちっぽけなくらしが、ひどく愛おしく誇らしいものに思えたのだ。他者や災難に、奪われていいものではない。守り抜くに、闘うに値するものだ、そう強く感じ取れる。

しんどい思いをしてまで、何のために生きるのか。おそらくこの問いはこの先もずっと考え続けていくことになるし、また冬が来たら流行病のようにぼんやりと死にたさが色を濃くするのかもしれない。けれど私が死にたさと向き合って得たこの知見によって、何より、同じくらいの濃さで死にたくなくなるのだという気づきが、おそらく次に死にたいと思ったときはもう少しマシに思わせてくれるのではないだろうか。まあそう思ったらまた騙し騙し、やっていきましょうかね。


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