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シナリオ小話 08 助詞(または副詞)

17歳でデザイナ・構成作家としてデビューして、フリーのプランナー兼プロデューサー、そして二流の脚本家としてちょうど20年の商業作家生活を無事に送らせて頂きました「おおやぎ」が、2007年頃からMixi等で公開していた講座連載を再構成して掲載いたします。今も脚本・シナリオを学ばれるあらゆる層のかたがご笑覧くださるなら望外の幸せです。

第8回ですが、回数を重ねてくる毎にシナリオ技術論みたいになって来ましたね(注 初出 2007年頃)。
そういうのはあまり本意ではなく、できる限り日常の中での気付きとシナリオ技法の関係みたいなことをつれづれに描いていきたいので、今日は「言葉遣い」について、「助詞」に注目してみたいと思います

日本人ならば誰もが当然のように「助詞」を効果的に使っています。ほとんど無意識です。
助詞というのは、「誰某は」の「は」や、「誰某が」の「が」、あるいは「の」とか「も」とか「を」などの、おおよそ1~2文字の言葉で、単語と単語をつなぐ接着剤のようなものです。
ひとつの事実を叙述する時、この「助詞」の選択によって、2つ以上の事実をほのめかします。また、誰もがおおよそ状況に応じ選択して助詞を使っています。

息子の源一郎君がお父さんの大切にしていた花瓶を割った場面。

1.父親「源一郎、お前というやつはっ!」
2.父親「源一郎、お前というやつもっ!」
3.父親「源一郎、お前というやつまでっ!」
4.父親「源一郎、お前というやつがっ!」

1だと通常の表現で、セリフの後部には「何という乱暴なことをするやつなんだ」くらいの叱責の言葉が続くわけですが、ただセリフの助詞を1つ変えるだけで、叙述のニュアンスはガラリと変わりますね。
2や3では、父親の怒りの矛先が花瓶を割った源一郎君の他にも向いています。もしかしたら、最近、弟の幸次郎君も同じようにパパの怒りを買うようなことを仕出かしたのかもしれません。
4では、父親は源一郎君を誰かと区別しています。最近この父親の怒りを買った幸次郎君と違い、パパは源一郎君までもがそのような失態を犯すとは思っていなかったので、怒りと驚きもひとしおです。

敬子「これ、猫がやったのよ」
 と、畳の上の割れた花瓶を指差す。
幸江「猫も?」
 と、敬子を指差す。
敬子「猫が」
幸恵「ふうん」
 と、苦笑して花瓶を片付け始める。

これって何を言ってるの?という感じでしょうか。
つまり要するに、花瓶を割ったのは猫のせいだと主張する敬子と、猫を追いかけ回すなりしてこの状況を作り出した敬子にも責任があるンでしょう?とする幸恵のやり取り。
(あるいは要らぬちょっかいを出して猫を怒らせた敬子が、猫に引っ掻かれそうになり慌てて花瓶を倒してしまったのかもしれません)
ともかく、この争点は「が」と「も」にあります。

敬子「これは猫のせいなの」
 と、畳の上の割れた花瓶を指差す。
幸江「その猫を不要に追いかけ回したのはあなたじゃないの」
 と、敬子を指差す。
敬子「違うわ。本当に猫が勝手にやったことで、私は悪くないわ」
幸恵「ふうん」
 と、苦笑して花瓶を片付け始める。

――まあ、こんな風にしてしまうミチもあるでしょうが、異様に説明臭くてイヤですね。
セリフはできるだけ軽妙なやり取りであるほうが現実的であるわけですから、争点を「助詞」に絞るセリフ回しは案外いろいろな場所で重宝します。

同じように、明確に言及しなくてもニュアンスを付加できる小道具に「副詞」があります。

「次のニュースです。また飲酒運転です」
「次のニュースです。さらに飲酒運転です」
「次のニュースです。今度は飲酒運転です」
「次のニュースです。またしても飲酒運転です」

説明するまでもありませんが、副詞「また」「さらに」「今度は」「またしても」にはそれぞれのニュアンスがあります。

「もう半分か」
「まだ半分か」

この話でもそうですが、副詞や助詞は、セリフを非常に短くし、なおかつそこに価値観や感情といったニュアンスを附加するには、とても便利な言葉です。
特にセリフに省略省略を繰り返し、できるだけ短く軽快にしていこうと努める時、助詞や副詞は威力を発揮します。

誠一「おまえねぇ」
誠一「おまえはねぇ」
誠一「おまえがねぇ」
誠一「おまえもねぇ」
誠一「おまえまでねぇ」

ごくごく短いセリフを回す時、誰もが無意識に助詞によって意味合いを出そうとすると思います。
弖爾乎波(てにをは)を正しく使いましょうだなんて、まるで小学校の国語の授業のようですが……日本語を用いるメディアでは小説でも何でもそうでしょうが、効果的に「助詞」を使いましょう、ということです。

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