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シナリオ小話 12回 分からないことは分からない

17歳でデザイナ・構成作家としてデビューして、フリーのプランナー兼プロデューサー、そして二流の脚本家としてちょうど20年の商業作家生活を無事に送らせて頂きました「おおやぎ」が、2007年頃からMixi等で公開していた講座連載を再構成して掲載いたします。今も脚本・シナリオを学ばれるあらゆる層のかたがご笑覧くださるなら望外の幸せです。さて今回は、詳細な技法の問題から少し離れて、比較的大雑把なことを話題にしてみたいと思います。

今回は「分からないこと」と題しましたが、より専門的に言えば「想像のための余裕」であるかもしれませんし、「述べなくてもよいこと」であるかもしれません。

というのも、拙連載の最初の方で「説明の過不足」――特に「過分な説明」はイカンとしました。脚本のテンポを悪くし、ドラマへの理解や没入感を薄めるからです。

・・・であれば、結論から言いますと、ドラマは「分からないこと」の連続なのです。それは、限られた時間内に、限られた視野の中で描くからです。誤解を恐れずにズバリ言うと、「分からない」からドラマなのだし、「分からなく」て良いのです。

人物を説明する時、たとえば、どうしてその人物が大食らいであるか、など説明する必要はないのです。
もっと言えば、大食らいなんだから大食らいなんです。
この人物がどのような経緯を経て大食らいになったのか、それが過食症という一種の病気であり、ではこの人物はどのような経緯でこの病気になったのか、と説明することはあるでしょう。

それがドラマであれば描く。ドラマでなければ描かない。

最近、このような経験がありました。(注 連載当時)

とある脚本の中で、ある細い女性を登場させ、見た目に合わずに大食らいで、いつも食べ過ぎてしまう、という一面を描きました。それを見て、周囲の皆は「人は見かけによらない」「ひ弱だと思ってたけど本当はいちばん頑強なのかもしれない」といった旨の話をします。
わたしとしてはただそれだけのことでした。弱々しいイメージの、実に真面目な女性であるけれど、実はそんなちょっとしたマヌケな一面を持っている。単にそれが面白かろう。周囲の人物らにとっては、そんな彼女の『意外な』一面を見て、微笑ましかったり、彼女のことをより知る機会になる。そんな様子に好感を覚える人物もいる。それだけの一幕です。

しかし、監修されるかたから、疑問と修正の声が入りました。
いわく、「彼女が大食漢である必然性、その経緯とその理由が、彼女の既存の性格描写や言動から想像できない」ので「理解できない」から「削除するように」との、どちらかと言えばキツい言葉でした。

さて……
「想像できな」くて「理解できない」ということが「削除」に相当とするこの判断、まさに笑止です。これでは、「意外」といった言葉は脚本の中に存在できないことになる。「必然性」を求めて人物を描写しようだなんてこと自体が、そもそも不可能を論じているわけです。

シナリオは分からないことだらけです。

その中で、できるだけ一般的に「何となく分かる」といった記号性を集めて、わたしたち脚本家はひとつひとつのやり取り・会話・行動を描写していきます。
視聴者の想像力と理解力というものを信じる時、いかなる表現もおおよその範囲は許容されるべきです。

たとえば、「部類のバナナ好きの大統領」といっただけで、何かを想像してニヤリとする。
別に彼がバナナ農園の出身であることでもなければ、バナナに性的な記憶を重ねているわけでもない。たんにオヤツとしてのバナナを愛するばかりの大統領。大統領になってもっと上等なオヤツも食事も手に入るであろうに、バナナが大好きでバナナに目がないなんて、何だか子供っぽいなと思わず苦笑してしまう。ただそれだけの話なのです。

映画「ロッキー」において、バルボア氏がボクサーになった理由など、視聴者は知らなくてもいいのです。劇中、どうして自分がボクサーなのかなんて、説明して欲しいとも思わない。「俺にはボクシングしかないんだ!分かるだろう?」と彼は語る。
「どうしてボクシングしかないの? 価値観が偏狭なの? 父親にボクシング以外の生き方はしないと誓ったのか? 父親はどうしてそんな約束させたの? そんな約束も今も守らなきゃいけない理由なんてあるの?」
……どこに、そのように考える視聴者がいるでしょうか?

ここで、とある小説の幾節かを引用してみましょう。

『バン、という大きな音が法廷内に響き渡った。俺が手のひらを机に叩きつけた音だ。』
『携帯に登録してある別の番号を呼び出す。まもなくプルルルルルという呼び出し音が響いてくる。』

ある大手出版社のコンテストで準入賞だった作品らしいです。
自分の書いた「バン」というオノマトペが、どこで鳴り、どのように鳴り、その音がどうして鳴ったか、説明しなければならなかったのだろうか?
携帯電話で電話をかけようと発信した時、プルルルという呼び出し音が鳴ることを知らない読者はいるのだろうか?

いいですか? ――
脚本に然り、小説に然り、映像に然り、図画に然り、「分からない」ことなど放っておきましょう。

少し前に、コメディ要素のある脚本の中で、朝のコーヒーに茶柱が立つといったシーンを描きました。
直後、主人公の靴ひもは左右ともに切れ、黒猫13匹を目撃し、鴉の集団に遭遇する。さらに、都会なのに牛の糞を踏みそうになり、サーキット場への道で迷子になったレーサーのバイクに衝突されそうになり、ジャケットのボタンが一度に4つも取れ、ようやく学校に到着といったシーンを考えたわけです。

監修される方が言いました。「コーヒーに茶柱が立つのはありえないので、隣で○○子ちゃんが日本茶を飲んでいて、彼女がイタズラで混ぜたことにして下さい」と。

――もしそうだったら、
「左右同時に靴ひもが切れることはありえないので、ずいぶん長い間、この靴を履いていることを説明して下さい」
「黒猫13匹は異常な数字なので、近くに最近捨て猫が多いことを述べて下さい」
「鴉の集団に遭遇することはまれなので、その日は生ごみの曜日だったことを語って下さい」
「都会なのに牛がいるのは変ですから、運搬中のトラックが事故っているところを描いて下さい」
「レーサーが迷子になるとは思えないので、彼が新人であまりにも緊張していたことを言わせて下さい」
「ボタンが4つも一緒に取れることはほとんどないので、ジャケットは古い物で手入れ無しに着ていることに言及して下さい」
……このようになってくるのでしょうか。正直、この感覚にゾッとしたので、玄関を出たところ「今日は何かイヤな予感がする」と言わせました。それでOKだそうです。
「ワケが分からないからこそ不吉な予兆」というコメディ、これは一種のジョークなのですよ? と問うたところ、「それは理解している。けれど、本来起こりえない不可解な事実を描いた際にはその理由というものを見せておかないと、視聴者は理解できないものなのです」とおっしゃっていました。

ドラマは説明文ではないのです。脚本は何がどのように起こったのかを詳細に解説する文章ではない。

いいえ、これはウソです。
小説は状況と行動の説明の連続です。
脚本は俳優の行動を列記した台本です。

しかし、真髄はそこにはない。
込み入った「理由」だなんてものは「分からないこと」なのだと思ってトバせばいい。
そうして、視聴者に“任せ”ればいい。
時々、作者自身でも「分からない」ことを書いていいのです。
少なくともわたしは視聴者として、その「分からないこと」を自由に想像して感動する権利を享受するのです。

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