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シナリオ小話 05 説明過多

17歳でデザイナ・構成作家としてデビューして、フリーのプランナー兼プロデューサー、そして二流の脚本家としてちょうど20年の商業作家生活を無事に送らせて頂きました「おおやぎ」が、2007年頃からMixi等で公開していた講座連載を再構成して掲載いたします。今も脚本・シナリオを学ばれるあらゆる層のかたがご笑覧くださるなら望外の幸せです。

第5回目の今回は、如何なる場合にもタブー視される「説明」という単語をあえて使ってみたいと思います。冒険かしら。(笑)

「説明ゼリフ」や「聞いたか坊主」「ナレーション」に始まり、「後説(あとせつ)」や「前説(まえせつ)」など、シナリオには「説明」に関する単語や用語がたくさん存在します。
それもそのはずでして、一種の限られた時間帯・空間を描写する『物語』なるものは、いわば説明の連続であります。
どこに何があり、それはどのような様子であり、誰が何を思い、何を為したのか――シナリオとは、これらのことを説明し続ける技法でしょう。シナリオに限りませんね。小説だってそうでしょう。
しかしこの「説明」であるシナリオのうちにも巧拙が問われる、ということには、本来は説明文の連続であるこれらの中に、やはり効果的であるものと、視聴者を辟易とさせるものとの二種が存在することの証左でしょう。

先だっての記事では、「時計=時刻を知らせる道具」と書きましたが、これなどは、おおよそ説明しないでも通じる、また、いつでも使い易い「説明」です。
「時計を指差す」とあれば、時刻に対する指摘でしょう。
「時計はしないし、見ない主義なンだ」と言うと、「時間(時刻)に縛られたくないンだ」というライフスタイル上の主張でしょう。

「苦笑」なんて言葉もまた、『心中は複雑きわまりない』という言葉を一言で説明する描写でしょうし、『皮肉る』という意味でも通じるかもしれません。
小説などで「困った顔をしながら明るい笑い声を上げて言うのだ」なんて記載だと、一種の矛盾であるがゆえに、複雑な心中を説明している、と言えるのではないでしょうか。
そうするとやはり、「困った顔をしているのに、わざと声を上げて明るく笑って見せるのだ。その心中は複雑に違いない」と説明するまでもなく、「苦笑して見せるのだ」で済むのではないでしょうか。

映像的な意味合いでのシナリオに話を戻しますと、以前、シナリオ学校の若い学生の方々が批評してくれとたくさん脚本を送って下さった中に、とにかく説明過多が目に付いたわけです。
覚えている限りですが――

人物A「任せて下さい。腕力には自信があります」
 と、近くのコンクリート壁を殴る。崩れる。

だとか、

人物B「そうだったのか。それは非常に残念だな」
 とCを見つめる。途中で淋しそうに目を伏せる。

だなんて表現が多いわけです。

しかし、考えてみてください。
『近くのコンクリート壁を殴って崩す』なんてことは、この人物に超人的な腕力が備わっていることのディフォルメなのですから、壁を殴り崩して見せてから、「任せて下さい。ふふふ」とやれば済むのでは?
また『相対する人物を見つめながら言葉の途中で目を伏せること』は、それ自体が何かしら寂寞の想いを想起させる行動なのだから、「残念だな」と陳述させるのではなく、「そうだったのか…」が潔い。あるいは、「不幸の一言では片付かん」と別の感想を漏らしたほうが効果的だったかもしれません。

おおよそ誰にも分かりやすい行動・描写によって説明できることは、セリフやその直後の文章で説明はしない。
このことは、「これで視聴者に通じたはずだ」という確信がなければ出来ないことなので多少の勇気というものが要求はされますが、やはり話のテンポを良くするためには、重複の「説明」は避けるべきでないでしょうか。

小説などで言えば、「まったく辟易するよ」「はあ……溜め息しか出ない」は2重の表現ですネ。
「雨はひどく冷たい」と書けば、寒々しい心理や、空虚な気持ちのシンボル(象徴)として受け取られるに違いない。
他にも、詩などでは「悲しすぎて」「涙も枯れる」は2重表現です。
シナリオに関して言えば、「ウィンクする」とか「Vサインして見せる」には、それぞれに象徴的なイメージがあるので、それを受けて「嬉しそうに」とか「なンだい得意気だな」なんてセリフを書いてしまうと、やはり説明過多になってしまいます。
相手がVサインして見せたら、通常それは「任せておけ」とか「やったね」という意味なのですから、これに対するリアクションを書くべきでしょう。

セリフも説明であれば、行動も描写も、また説明である。
説明の連続であるがゆえに、ドラマを転がすおりに同じことを2回以上説明するのはやめましょう、ということでしょうか。

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