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【魔除けしたのに】 その③ 八木商店著

 その社長さんが開運したのは、何もそのお寺でお払いしてもらったからじゃないでしょうに。合理的な彼が本気でそう思い込んでるってことは、その社長さんに彼を魅了するものがあったからじゃないのかしら。多分、前々から彼はその社長さんに憧れを抱いていたんだわ。社長さんの醸し出すカリスマ性に彼の理性が翻弄されたのよ。きっと。

「お払いするまでは何かにつけて無駄な出費に苦しめられてたそうなんだ。社長も俺と同じで一切神頼みなんてしない人だったんだ。でも、あまりにも異常な出費にね、これは何か疫病神が憑いてるに違いないと思い、そこで手っ取り早く近所のお寺でお払いしてもらったそうなんだ。お払いしてもらっても別に何か変化が感じられることはなかった。でも一週間くらいしてからだろうか、身の周りで良いことが涌いたように、ほいほい起こりはじめたそうなんだ。それは途切れることを知らず、今だに幸運つづきだそうだ」

 そう語る邦明は尋常ではなかった。まるでその幸運つづきの社長さんが乗り移ったかのような話し振りだった。

「ね、すごいだろ。世の中科学では解明できない不思議な事ってあるんだよ」

「じゃあ、明日お払いしてもらって、うちもその社長さんのようにどんどん幸運が舞い込んでくるといいわね」

 由美子は邦明が考えているほどお払いに期待はしなかった。

 翌日、由美子は夫に案内されるままにゆうを連れて、その幸運を招いてくれるというお寺へ出向いた。受付けで規定の金額5,000円を払い、案内されるままに護摩の煙が立ち込める本堂に腰を下ろした。読経が鳴り止むまでの数分間、ただ座っていただけの由美子には本当にお払いされていたのかどうかもわからなかった。帰りがけに邦明がほっとした表情で言った。

「これで安心だ。社長のように良い事ばかりが起こってくれとは言わないけど、まあ魔除けしたんだからな、もうこれ以上俺たちを悩ますようなことは起きないだろう」

 そのとき彼が何気に使った魔除けという言葉の響きが、由美子の耳の奥でいつまでも遺物のように残った。彼にしてみれば結婚式の案内状は魔の招来だったのかもしれない。あの日のことを思い出している間に、気がつくと由美子は既に実家まで辿り着いていた。

 由美子は実家の玄関のドアに手を伸ばした。

 あっ!

 ドアは鍵が掛かったまま微動だにしない。ついつい誰かいるものだと思い捻ったドアノブ。まだ皆んな仕事中だったんだと気づいた。ドアノブを握り締めたまま立ちつくす由美子を不思議そうにゆうが見つめている。

「そうだそうだ。ゆう、こっちいらっしゃい」

 由美子は実家のしきたりを思い出した。そしてゆうを手招いて、裏庭に通じる鉄格子のドアを押し開けた。庭に回ると由美子の匂いを嗅ぎ付けて、土佐犬のリョーマがゆっくりとその重い身体を地面に擦り付けながら近寄ってきた。

「あっ! ワンワン!」

 自分よりも何倍も大きいリョーマに驚いて、ゆうが素早く由美子の背後に身を隠した。

 ゆうとリョーマは初対面ではない。昨年のお盆に帰郷した際、体重100㎏のリョーマの大きな背中に乗せて庭を歩かせたことがあった。そのとき撮った写真は自宅の玄関に飾ってあった。物心つく前のゆうだったから実感としては何も憶えてないのだろう。

「このワンワン、お家の写真にゆうと一緒に写ってるやつだよ」

「…」

 顔を顰めて思いだそうとするゆう。しかし、まったく身に覚えがないといった表情にすぐに変った。

「大丈夫よ。このワンワンは悪い人にしか噛み付かないから」

 由美子はゆうの目線に合わせて身をかがめて優しく囁いた。リョーマはゆうの匂いを嗅いで、敵ではないと理解したに違いない。尻尾をふりふりさせて、ゆうにその巨体を擦り付けてきた。

 リョーマを飼いはじめて以来、由美子の実家では家を留守にするときは、庭に面した南側の縁側のガラス戸は鍵を掛けないで出る習慣になっていた。勿論、泥棒が入らないように太い鉄策で囲んだ庭には、番犬のリョーマが放し飼いにされていた。

 由美子が高三の夏、一度だけ土佐犬の恐ろしさを見くびった泥棒が家に忍び込んだことがあった。その泥棒はリョーマに左腕を噛み付かれ、かろうじて皮一枚で手首から先がぶら下がる程度の重傷で解放された。半殺しの目に遭った哀れな泥棒は、父親の通報で駆けつけた警察に即刻御縄になったが、そのとき手錠が両手に回ることはなかった。この話はたちまち市内に知れ渡り、それ以降泥棒が入ったことはなかった。

 リョーマは相手が敵ではないとわかれば、絶対に吠えたり噛み付いたりはしなかった。だからリョーマと何度か面識のある由美子の友人たちには全く吠えることもなく、時には友人の帰宅にふらふらとついて行くこともあった。

 物珍しそうにゆうを眺めるリョーマにさよならを告げ、由美子は家に入った。着替え以外はほとんど何も詰め込まなかったバッグを居間のソファに置き、由美子は真新しいディズニーアニメのビデオテープをビデオデッキにセットした。実家でこのビデオを観る者はいない。これはゆうを連れて帰ると聞いた弟の達也が買ってくれていたものだった。

 ゆうはテレビ画面に食い入るように目を向け、声をかけても由美子の呼び声は聞こえていない様子でいる。そんなゆうに安心すると由美子は邦明に無事に帰郷したことをメールして、続け様に真理に電話を入れた。由美子の携帯電話はスリーコールで真理に繋いだ。

「もしもし。あ、真理。今実家に着いたとこ」

 電話する由美子に主婦の様子は見られず、もうすっかり高校時代の彼女に戻っている。

「わざわざ遠いところご免ね。ほんと嬉しいわ!」

 姿外見はもうすっかり変ってしまっているが、声の質は昔のままの二人。

「わたしね、真理の結婚式にだけは絶対にどんなことがあっても出席しようって思ってたんだよね」

「あっ、標準語」

「え?」

「思ってたん、だよね」

 だよねを強調した真理の指摘に、実家に帰ってくる途中で逢った老婆が思い出された。

「あっ、ご免。つい出ちゃったね」

「出、ちゃったね。アハハ。もう10年も向こうやったらそうなるよね。わたしなんか意識せんと標準語なんか喋れんよ」

 確かに標準語を意識して話してるつもりはなかった。

「そうやね。10年も向こうやったらそうなるかもしれんね」

「あ、ちょっとだけ戻ってきたかな。ところで折角電話もらったんやけど、今ちょっと手が放せんのよね。後でゆっくり、あ、そうか、どうせ今日仕事が終わったら逢うんやったよね」

「そう。それで何時頃、何処で逢うのか訊いとこうと思って電話したんやけど」

 二人は仕事が終わった後、由美子が真理を会社に迎えに行くことを約束して電話を切った。

 

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