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【 一戸建て 】 その④ 八木商店著

我が家に猫が居座って四ヶ月が過ぎた。

 アイツは親猫と見間違えるほどに大きくなった。アレの成長に比例して、私の肉体は衰えていった。不眠症は改善されず、毎日が虚ろに過ぎていく。体調を崩して以来、仕事もできないでいた。家計は切迫し、働けない私に代わり数週間前から妻が外に出るようになった。

 妻が留守のあいだ、私は三歳の愛娘と一緒に部屋の隅でひっそりと身体を丸めて横たわっている。栄養剤の容器は加速的に軽くなり、少し振っただけで錠剤が容器に跳ね当たる軽快な音がした。

 妻は朝昼晩と三度数種類の栄養剤を用意してくれている。残念なことにもう何週間も前から、私は妻の料理を一口も飲み込めないほどに衰えていた。

「パパ、大丈夫?」

 娘の労りの言葉が身に染みて辛い。

「大丈夫だよ」

 健気な娘にはそう返したものの、大丈夫でないのは明らかだった。

 体重はどれくらい減ったのだろう。鏡に映つる私の顔は病に侵され、齢幾ばくもないものに見える。頬はこけ、顔からは血色が退き、目の窪みが骸骨を浮き上がらせている。

 私はこのまま体力が回復するのを待たず死んでしまうのではないか。弱音を吐くわけではないが、素直にそう思えた。

 死神の足音がこのところ昼夜を問わず耳元にこだましてくる。

 その足音はけっして大きくなく、意図的に音を消してやってくる。寝室の壁の向こう側にやってくると静かに立ち止まり、一呼吸おいて狂ったように鋭く尖った爪を薄いベニヤ板に立てて、ガリガリほじくりはじめた。死神はもうすぐそこまできていた。

「パパ、わたし恐い!」

 ベニヤ板を伝って響き渡る鋸を引くような強弱のついた振動音。軽い地震のような振動を伴って部屋全体に響き渡るその音は、幼い娘の鼓膜を容赦なく恐怖で襲った。横たわる私に、身を丸めて縋り寄る娘は震え止まない。私たち親子は死神がしびれを切らせてその場を立ち去るまで、じっと息を潜めて耐えなければならなかった。

 地獄になった。

 かつて私が未来に描いた幸せなライフスタイルは幻想でしかなかったのだろうか。アイツがきてからの生活は、私たち親子にとって地獄でしかなかった。

 先日、昼間久々にぐっすりと眠りに就いたとき、妻は私の実家と彼女の実家に出向いて今後の生活について両親たちと話し合ったそうだ。私の両親も義父さんたちも実家での同居を歓迎してくれたという。同居に私は抵抗はない。それは妻も同じ意見だった。娘は祖父母との生活を大層喜ぶに違いない。

 決断の時がきたのかもしれない。妻が仕事から帰ったら話そう。私の決断に妻も喜んでくれるはずだ。私は泣き疲れて眠ってしまった娘を抱き寄せて、妻の帰りを待って眠りに就いた。

 どれくらい眠れたのだろう。鋸を引くような不快な音で、ハッと目を覚ました。娘はまだぐっすり眠っている。部屋に射し込む陽射しの帯が見えないということは、どうやら日が暮れたようだ。私はまどろみの中、まだ完全に目覚めきらない頭で、今その時に思いを巡らせていた。

 もう夜なのか。随分眠った。このところ生活リズムは完全に妻のそれとは逆転している。

 妻は私の看護と、娘の子育てで手が一杯だというのに、働けない私に代わって外で稼いでくれているのだ。彼女へのこの恩は私のこの先のすべての生涯をかけて返していかなければならないだろう。今の私は夫としての義務を果てせず、父親としての義務をも果たせないでいる。

 失格者。

 そうだ、家族に貢献できない私は、失格者の烙印を押されても仕方なかった。しかし、このまま落ちぶれていくのは嫌だ! このまま衰弱して恩を返せないままに、家族から永遠に去るようなことはしたくない。頬に伝わる熱い涙が口の中に流れ込み、苦みが広がった。身を粉にして働く妻を思うと、涙はとどまることなく溢れ出た。

 妻。彼女は今何を考えているのだろう。不自由な私に失望し、自分の未来をも絶望の蓋で閉じようとしているのではないだろうか。

 私は不意に妻をこの痩せ細った腕で抱きしめたい衝動に駆られた。妻を求めて部屋の中を無我夢中に見渡す。しかしそこに彼女の帰宅した様子はなかった。

 家に帰る途中で、また実家に寄っているのだろうか。食事の時間を一度だって遅らせたことがなかっただけに、私は些か心に冷たい風が吹き込むのを感じた。実家に寄って帰りが遅くなっているだけならいいのだが。

 憶測は妻の元気な姿が見えないだけのことで、悪い方にばかり私を誘い込んでいった。事故に遇ってなければいいのだが。ベニヤ板を鋭い爪を立てて掻き毟る音が、一層私を不安に包む。

 

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