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【 一戸建て 】 その① 八木商店著

 或る日、夕方、家に帰ると猫がいた。

 玄関のドアを開いた瞬間、あの独特の臭い匂いがまとわりついてきた。

 どこに隠れているのかと耳を澄ます。か細い鳴き声が微かに聞こえてきた。

 耳を澄まし、匂いを辿って居間に入るとそいつはいた。

 まだ仔猫だった。

 見知らぬ場所に無理矢理に連れてこられたせいか、ビクビク震え、身を縮めて丸くなり、怯えた目だけを機敏にキョロキョロさせている。

 とても哀れな姿だ。

 しかし、私はそんな仔猫に同情はしない。

 なぜなら私は猫が嫌いだから。

 私の両親も大の猫嫌いだった。そして祖父母も皆んな猫嫌いだった。

 なのにうちの娘や妻ときたら、無防備にもおどおどしている仔猫に触れながら、かわいー!と、そのたどたどしい仕種一つ一つをそんな曖昧な言葉で片づけてしまう。いくら娘や妻が愛らしいといおうが、私は嫌いなものは嫌いで、愛らしい仕種に一瞬たりとも気持ちが揺らぐことはなかった。

 ペットショップで買われてきたソレは、一応家族ということになるわけだが、私は絶対にソレを可愛がることはない。自信がある。だから情も移ることもない。ソレが死んだところで心を傷めることもない。

 築一五年の我が家。

 現在私は一戸建てに住んでいる。この家に住みたいといいだしたのは妻だった。私は何処に住みたい、どんな家に住んでみたいという願望は、妻ほど強くなかった。

 私は市営団地で生まれ、そして育った。

 両親が生まれ育ったのもそこで、祖父母も皆んなそうだった。

 皆んなそこでの生活を好いていた。団地での生活はとても快適だ。私はそこ以外の生活をほとんど知らずに育った。両親は祖父母が亡くなった今でも、昔から住み慣れたそこに住んでいた。

 団地は一つ一つの部屋は確かに狭いが、その建物、敷地は一戸建てとは比べ物にならないくらい広大だ。私はその広い空間が至る所に空いているそこが好きだった。子供のころは隣り近所の悪ガキ共と、いつも広い敷地内を夕方遅くまで駆け回ったものだ。瞼を閉じればあのころの懐かしい思い出が、昨日のように浮かび上がってくる。

 思えば今までこうして生き長らえてこれたのも、そこで培われた知識のお陰だ。すべて周りの大人や悪ガキ共と共存することで、自然に学んでいったように思う。もちろん両親、それに祖父母には、私をここまで大きくしてくれたことへの感謝の気持ちを忘れたことはない。私を取り巻く環境そのものが、私を成長させてくれたのだと思えるのも、今現在私が一戸建てで生活しているから余計にそう思うのだろう。

 幼なじみの大半は今でも住み慣れた団地に住んでいる。最近は実家に寄ったときに、軽く挨拶を交わす程度の濃度の薄い付き合いになってしまったが、それでも皆んな昔と何ら変わらぬ接し方をしてくれる。彼らもまた私を家族の一員と認めているからだろう。

 団地だと敷地内に生活に必要なすべてが揃ってるから楽でいいんだよ、と皆んな口を揃えていうが確かにそうだ。スーパーマーケットやコンビニが敷地内にあるのは、家庭を仕事場にしている主婦たちには有り難いに違いない。特に子育てに追われ、時間にゆとりを持てない時期は、遠方まで走って食料を調達するのは不便極まりない。

 団地は社会の中にあって、更に小さな社会を築いている。

 だからそこで生活するとなると、様々な規制が強いられることになる。不便に感じる物もあれば、感謝に値する物もある。

 ペット禁止。

 規則の中でもこのペット禁止というのは、私には有り難かった。

 私はこの年になるまで、ペットと親しんだことはない。それだけにペットへの接し方は不慣れで煩わしい。高齢の両親がこの家に引っ越してこない理由の一つがこれだった。

「だっておまえ、一戸建てだろ。今はまだ孫も小さいけどその内に友達ができ、その友達の家でペットでも飼っててみろ。欲しいっていいだすのに決まってるだろ。そうなったらどうするんだ。父さん、犬はともかく猫は生理的にダメなんだよ。母さんもそう。そんなことおまえもよく知ってるだろ。ここはペットを飼えないから快適に暮らせるんじゃないか」

 父も母もペットが放つ体臭を毛嫌いした。犬は兎も角、猫の臭いには異常なくらい過敏に反応したものだ。私も猫の臭いはちょっと嗅ぐだけで、全身に鳥肌が立つほど寒気を感じてしまう。猫の体臭もさることながら、あのエサの臭いには耐えられないものがあった。

 最近ではキャットフードとかいうソレ専用の食品も市販されてるそうだが、祖父の子供のころは、簡単に屋根裏に忍び込んでネズミを狩っていたらしい。昔、眠りに就く前によく祖父が話してくれたソレにまつわるおぞましい話は、猫について何も知らなかった幼い私を強烈に震え上がらせた。その光景を思い描くだけで、全身の体毛が逆立ち、皮膚が瞬時に縮こまる。

 最近はペットの猫は、もう狩りはしなくなったと聞く。しかし腹を空かせた野良猫は、今も昔同様に狩りをしていると噂で聞いたことがある。

 私はそんな野蛮な行為を良心の呵責もなく、平然とやってのける無神経な猫が大嫌いだ。今まで猫に噛み付かれたり、追い回された恐ろしい経験はない。恐らく祖父から聞いた話は、先入観となって無邪気な心の奥深いところに猫嫌いの種を植え付けてしまったのだろう。

「パパ、ほら見て! この子、すごくかわいーわよ」

 三歳を迎えたばかりの愛娘が、そっぽを向く私の小袖を引っ張って、ソレに微笑みかけている。

 私は無邪気な娘に促されて止むなくソレに視線を送った。

 親元を無理矢理離され、知らない場所に連れてこられたことにおどおどしている姿に、一瞬幼い娘の姿が重なった。

 私はその瞬間猫嫌いにもかかわらず、迂闊にも哀れな眼差しを床に這いつくばったソレに向けてしまったのだ。不安におののくソレは小刻みに震えていた。

 そのまましばらく娘と一緒に見ていると、床に転がっていたスーパーボールを見つけて、前足で転がしてあっち行ったりこっち行ったりとじゃれはじめた。

「かわいー!」

 愛らしい笑みを浮かべた娘の優しく弾んだ声が、ソレに哀れみの眼差しを向けた私に鞭を打った。

 無邪気で無知な娘の無防備さが、私に怒りを招いたのだ。途端に私はいつもの猫嫌いに戻っていた。猫の恐ろしさを知らない娘に怒りの感情が湧き起こる。正直、私には仔猫のボールを転がしている姿のどこがかわいいのか理解できないでいた。

「でもなー、こいつもすぐに大きくなって今に悪さするようになるんだぞ」

 私は心に密かに充満した怒りを制して、優しく娘に諭しかけた。

「そりゃそうだよ。だって、猫だもん」

 私は娘の言葉に思わずドキリとし、言葉を飲み込んでしまった。

 娘はまるで猫が何たるかということを知っているかのような口振りで、すらりと言い退けたことに大きな危機感を抱いたからだ。

 私は優しい笑顔を保ったまま、ソレを眺める娘を呆然と見つめ、彼女の将来を懸念しその無防備さに危惧した。

 この子は何処で猫を知ったというのだろう。私が知っているかぎりでは、猫に遭遇したことは一度もないはずだ。なのに、なぜ?

 妻と外出したとき、そのとき知ったというのか?

 いや、それはないはずだ。元来妻も私同様に生理的に猫は嫌いなはず。猫の姿を見るのも嫌なはずだ。

 しかし、娘に猫を教えてやれたのは妻以外にはいない。私の両親も、妻の両親も高齢のため、娘が生まれたころからはほとんど外出しない生活を送っている。彼らが嫌いな猫の話を娘にするとは思えない。ならば、やはり娘は妻と外出したとき猫の姿を見つけて、そのとき教えてもらったのかもしれないな。多分そうだ。

 それにしてもこの子が猫がどういう生き物なのか何も知らないというのは危険だ。しかし妻も妻だ! この子が猫に興味を示したときに、なぜもっと適切なことを教えてやらなかったのだろう。お嬢様育ちの彼女はおおらかなところはとても良いのだが、能天気で少し常識に欠けているところは宜しくない。

 今はまだ仔猫だからいいものを、大きくなったときには取り返しのつかない事態を招くかもしれないというのに。私は不意に湧き起こった苛立ちに妻を呼びつけた。

「おい。どういうことだ! どうしてこの子が猫を知ってたんだ。猫に近づけたんだな! あれほど近づけるなといっておいたのに。私が大の猫嫌いなのは知ってるはずじゃないか! 君も猫が大の苦手なのに、一体何を考えてるんだ!」

「だってー」

「だってじゃない! 仔猫なんて半年もしないうちに大きくなるんだぞ。この子があの鋭い爪で引っかかれたらどうするんだ! そこからバイ菌が入って病気になり、取り返しのつかないことになったらどうする!」

 私はついつい自分の興奮した声に更に煽られて、いつになく大きな声で怒鳴っていた。その異様な私に娘は驚き、妻に駆け寄って泣きはじめた。

「ほら、泣いちゃったじゃない。そんなに大声ださなくてもいいのに。大丈夫よ、この子にもちゃんといい聞かせてるから。猫は遠くで離れて見るようになさいって」

「そんなこといったって君。猫は犬のようにノロマじゃないんだぞ! 壁だって垂直に登ってくるし、通れそうな所は何処だって頭を通してくるんだからね。君は知らないんだよ。本当の猫の恐ろしさを」

 娘は妻の背後で隠れるように泣きつづけた。

「私だって猫の恐ろしさくらい知ってるわよ!」

「何を知ってるというんだ! いってみたまえ!」

 感情はなるべく抑えたかったが、妻のふてくされた居直りに触発されて再び怒鳴ってしまった。

「猫は獰猛だってことよ! つい先日も隣り町で野良猫に喉元を噛み切られて赤ちゃんが亡くなったって」

「ああ、それなら私も知ってる。実家の近くだ。昔私が住んでた団地の向かいの棟に住んでた方のお子さんらしい。御主人は私よりも随分年下だから一緒に遊んだことはないが。一戸建てに引っ越して一週間も経ってなかったそうじゃないか」

「念願のマイホームを手に入れた矢先の、絶対にあってはならない悲しい出来事だったのよ」

 妻は泣きじゃくる娘を抱き寄せて、哀れな表情を浮かべて呟いた。

 亡き子を思う母親とは、常にそのような表情でいるのではないかとさえ思える寂しい顔だった。

「まあな……。

 一戸建てには住めばそれはそれで、それなりのリスクがあるんだ。君の実家は一戸建てだったからわかってるものだと思ってたのにな。

 一戸建ての生活に慣れていた君には、猫は飼っても大丈夫だという心の透きがあったんじゃないのか。慣れが心に無防備を招いたんだよ」

「実家には昔猫がいたけど、猫の被害なんて一度もなかったからね。そうね、この子だってまだまだ小さいんだもんね。噛み付かれでもして場所が場所なら、ほんと命を落としちゃうかもしれないんだよね」

 私は反省の色を露に見せた妻の肩をポンと軽く叩いて、その日から我が家の居候となった仔猫を残して部屋を出た。

 

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